◆ される/するを超えて
私自身も過去に「された側」になったことがあります。
でもその前は、むしろ「する人」を激しく糾弾していた。
未熟だったから、線で区切られた立場しか見えていなかったのだと思います。
今ならわかります。
する・されるという分類そのものが、本質を見誤らせるのだと。
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◆ もし境界が消えたら
極端な話ですが、結婚が子育てや生活の責任を分かち合う仕組みだけになり、
「誰とでも関係を持っていい」という世の中になったとしたらどうなるでしょう。
きっと多くの人は、関係を持つことに今ほど執着しなくなる。
むしろ「禁止されているからこそ燃える」人たちの関心は、
驚くほど早く薄れていくのではないかと思います。
◆ 見えてくること
つまり、「する/される」自体が本質ではないのです。
それはただ、たまたま今は「こちらの車線」にいるのか、
「対向車線」にいるのか――その程度の違いにすぎない。
本当の問いは「自分は何を大切にして生きたいのか」。
だからこそ、互いを責め合ったり、立場を盾にして言い合っても、
本当の解決にはつながらないのだと思います。
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