『お母さん緑着る人嫌いやねん』
これは昔、私の母が言った言葉。(母は関西弁)
それを聞いて
「へー、そうなんだね」
と思うか
「なんで?緑いいじゃん。」
「緑のなにがいけないの?」
「どうでもいい。」
いろいろあると思うけど、
私は
『緑を着てはいけない』
と思った。
そして、
『緑を着る人は変な人』
と思った。
今思うとバカバカしいし、すごく未熟。
お母さんに嫌われたくない気持ちも働いたのかもしれないけど。
今、いろいろ考えたり、本読んだりして、
「判断しない」
「評価しない」
「反応しない」
ほうが楽だと思ってる。
そこら辺にあるいろんなことについて
「いい」とか「わるい」とか
いちいち判断し過ぎてたなーって気付いた。
今思えば、
母はそれをやるのが好きだ。
あの人のあんな服装、
あの人のあんな言動。
(人の振り見て…ということを心がけていたんだと思う)
その価値観の中にいて、
常に周りのことを
「いいのか?悪いのか?」
と考えながら生活してたから
すごーく疲れたと思う。
なにか判断しなきゃいけない時は
「母ならなんて言うだろう?」
と、判断の基準を母の中に持っていた気がする。
自分でよく考えて、自分がどうしたいか、
「母なら」じゃなくて
「自分が」どう思ってるか、よく考えればもっと気持ちが自由だったかもしれない。
父や母の意見も一つの意見、だけど自分はどう考えるか、
そうやって切り離して考えられたら。
母は自分の好みを言っただけ、だけど私は強制されたように感じた。
こういう考え方の癖が、性格を作るのかな。
「へーそうなんだ」
(私には関係ないけど)
くらいに思えたらいい。
私が気にしてたことが
「はあ?そんなこと気にしてたん?」
てこともあるだろう。
親子においては
そういう切り離しが難しい。
私が自分の子どもに何か意見を言う時は
出来るだけ強制力を持たないように伝えたいと思う。
『へー、緑着る人嫌いなん?私は着るけどどうする?』
て言ったらどうなってたかな?
(о´∀`о)イジワルデスネ笑