「百億の昼と千億の夜(以下「百億」と略記)」は光瀬龍が原作のSF長編作品です。
1977年から1978年にかけて、当時全盛期だった「週刊少年チャンピオン」に、手塚治虫の「ブラック・ジャック」や水島新司の「ドカベン」などと並行して連載されました。
「百億」は原作のある作品ですが、萩尾望都の諸作品に大きな影響を与えたと思います。
特に重要なのは、「排斥に対して戦う少女」というモチーフでしょう。
「百億」では、宇宙外の超越者「シ」が、宇宙に発生した生命を恐れ、「自然消滅にいたる崩壊因子」を注入します。
そして、その使者(弥勒ら)である「惑星開発委員会」が、生命・文化が「消滅に至る開発」、「滅びへの道」を用意します。
仏教の「弥勒の救済」や、キリスト教の「終末の復活」などは、それを隠すための偽の物語なのです。
また、「惑星開発委員会」側で働く多くの者(帝釈天ら)は「思考のコントロール(洗脳)」を受けています。
それに対して、宇宙の創造主である輪転王が、「シ」や「惑星開発委員会」と戦う使者(阿修羅王ら)を育てます。
こうして、宇宙の生命を代表して、阿修羅王は消滅しつつある宇宙で、絶望的な戦いを続けます。
「シ」による崩壊因子の注入や「惑星開発委員会」による「消滅に至る開発」は、萩尾望都の諸作品の文脈から解釈すれば、社会における、あるいは、個人の意識における「排斥」の比喩的な表現であると考えることができます。
彼らは「排斥する者」であり、宇宙の生命は「排斥される者」です。
そして、阿修羅王は宇宙の生命の化身として「排斥する者」と戦います。
萩尾作品では、「排斥する者」と「排斥される者」の正面切った戦いが描かれたのは始めてでしょう。
戦いは、輪転王が「存在への願い」、「生き抜くことへの願い」を込めて阿修羅王らを育てることで生まれます。
これは、「ポーの一族」や「精霊シリーズ」で問われた「存在への問い」のテーマを継承するものです。
戦いは、物理的、身体的な戦いだけではなく、多くは心理戦、思想戦として行われます。
戦士は、阿修羅王、ユダのような悪とされる者、シッタータ(釈迦)のように伝統的なバラモン=ヒンドゥー教を否定してそちら側から悪とされる者です。
彼らは、偽の救済を見破り、否定し、自身の「存在」を、「生」を肯定します。
つまり、「排斥された者」による、「排斥」を正当化する社会一般の価値観との戦いです。
また、敵である「排斥する者」の方が圧倒的に強い者であり、「排斥される者」の戦いは、絶望的な戦いとして描かれます。
ですが、その戦いを続けるしかないのです。
<モチーフの継承>
「百億」で描かれる「存在への問い」、「絶望的な戦い」、「宇宙の外から来た敵」、といったテーマ、モチーフは、「百億」のすぐ後に発表された「スター・レッド」にも継承されます。
「百億」では、「排斥する者」の本体は宇宙外の存在です。
阿修羅王らは宇宙の生命の化身であり、宇宙内においては「異質な者」ではありません。
宇宙外の存在から見て「異質な者」、「反抗する者」となります。
過去の萩尾作品では、「排斥される者」、は、精霊、超能力者、バンパネラといった普通の人間ではない「異質な者」でした。
ですが、本作では、そのような特別な存在ではなく、普通であるが疑り深く、気づいた者、騙されない者です。
それゆえに、騙す人間、騙されている人間から「排斥される者」なのです。
また、「惑星開発委員会」は、「異質な者」を「排斥」、「管理」する組織です。
以前の萩尾作品では、社会一般が「排斥する者」でしたが、このように限定的に明示された組織として描かれたのも今作の特徴です。
これは、「スター・レッド」の「委員会」、「銀の三角」の「中央」、「マージナル」の「惑星開発委員会」として継承されます。
戦う主人公の阿修羅王は、少女です。
原作でも、萩尾作品でも、阿修羅王は興福寺の阿修羅像を一つのモデルにしています。
この像は少年のような姿ですが、「百億」ではこれを少女にしました。
戦闘少女としての主人公像は、「スター・レッド」のセイ・トゥパールに継承されます。
一方、転輪王は宇宙そのものである知性であり、阿修羅王はその化身です。
この宇宙的知性の化身という主人公像は、「スター・レッド」の次のSF長編である「銀の三角」のラグトーリンに継承されます。
また、「百億」の転輪王の戦士は4人(オリオナエ、ユダ、阿修羅王、シッタータ)です。
「4」というテーマは、この後の多くの作品に見られます。
「銀の三角」では、「4」を無限に続く数と表現し、ラグトーリンが問題解決のために結びつけたのが4人です。
「マージナル」では、イワン博士が作った子が4人です。
「バルバラ異界」では、エズラ博士が作った子が4人です。
<原作から描き足した部分:阿修羅王とは誰か>
萩尾望都の「百億」には、原作と違って、描き足した部分、描かなかった部分があります。
(原作には連載版と文庫版と新装版があって、作品の解釈に大きな違いを生みますが、萩尾望都が参照した原作は文庫版です。)
阿修羅王を美少女に設定したのは光瀬龍です。
萩尾望都は、光瀬龍に「百億」を描きたいと依頼した時、光瀬龍から、「ところで、阿修羅王は男でしたっけ、女でしたっけ?」と言われたと明かしています。
光瀬が阿修羅王の性別にこだわりがなかったかのように聞こえますし、萩尾望都はそう思ったのかもしれません。
ですが、本当は、大きなこだわりがあったからこその、カマをかけた発言だったのでしょう。
光瀬にとって阿修羅王が少女であることと、萩尾望都のような女性にとって少女であることは、意味が違うことを意識していて、それを暗に伝えたかった、あるいは、萩尾望都の解釈を確かめたかったのでしょう。
SF評論家の宮野由梨香によれば、光瀬龍と会った時、彼は、萩尾望都の「百億」を、女性のファザー・コンプレックスからの解釈だと言ったそうです。
阿修羅王と帝釈天の問答は、萩尾望都が書き足した部分です。
阿修羅王は「あなたは老いた」と語り、帝釈天は「もう戦うことをやめぬか、阿修羅。おまえは勝てない」と語ります。
光瀬は、ここに、父に象徴される旧来の社会的価値観・女性観を乗り越えようとする娘の姿を見たのでしょう。
阿修羅王は、少女でありながら、少女らしくない姿で、社会的な規範と戦う存在なのだと。
ちなみに、「百億」の原作では、阿修羅王の本当の父的存在は転輪王です。
ですが、萩尾望都自身には、父よりも、きびしい母との関係の方が、人格形成に影響を与えてきたようです。
それに、萩尾の「百億」が連載されたのは少年マンガ誌であり、読者は少年です。
ですから、ファザコン解釈は、一面的なものではないでしょうか。
宮野由梨香は、論文「阿修羅王は、なぜ少女か」(2008)や別の論考で、光瀬龍が阿修羅王を美少女に設定したことには、私的な理由があったと解釈しました。
ですが、複雑な考察ですし、萩尾作品の解釈にはほとんど関係ないので、ここでは紹介しません。
一般の男性にとっては、少女の阿修羅王は、シッタータにとっての阿修羅王、つまり、自分の信じる価値観とは異なる真実を外の世界から知らせ、共に戦う存在です。
それは、意識にとっては、未知なる無意識からやってきて、意識を否定する働きです。
グノーシス的な内面の智の女神ソフィアであり、戦うアテナ(現代的に言えば戦闘少女)です。
これは女性にとっても共通ですが。
ちなみに、光瀬龍は、原始の宇宙的な海を描く序章のところからすでに阿修羅王がいるのだと語っています。
つまり、阿修羅王は、宇宙の生命そのもののような存在です。
そして、成長した阿修羅王は、宇宙の生命として、宇宙外の敵との勝ち目のない戦いに挑みます。
原作の連載版では、ラストで原始的な生物の地衣類だった転輪王が死んで、阿修羅王を宇宙の外にまで送り出します。
つまり、阿修羅王は父を超えた領域に至ります。
文庫版では、萩尾版と同じく、輪転王の正体は明示されず、輪転王は死なず、阿修羅王は宇宙の外にまでは至りません。
新装版では、阿修羅王が序章で描写された原始の宇宙的な海を懐かしみますが、すでに還る道はないと語られる加筆がなされました。
つまり、阿修羅王が原始の宇宙的な海から存在することが明示されます。
<原作の書かなかった部分:海>
萩尾望都は、その序章の「海」を描きませんでした。
原作の序章は、
「寄せてはかえし 寄せてはかえし かえしては寄せる波の音は、何億年ものほとんど永劫にちかいむかしからこの世界をどよもしていた」
という海の描写から始まります。
この「海」は地球の原始の「海」ではなく、「宇宙=生命=海」として抽象的な宇宙の「海」でしょう。
この海は、「寄せては返し」という無数の昼と夜の「生滅」を繰り返す海です。
続く第一章の「影絵の海」では、進化する海の生命が、何らかの理由によって死滅する光景が書かれます。
敵である「シ」は認識の外にあるということでしょう。
萩尾望都は、この海の生命の「死滅」も描きませんでした。
萩尾望都が冒頭で描いたのは、宇宙に惑星が生まれ、海が生まれ、生命が生まれ、進化するという前向きな歴史だけです。
ところが、萩尾望都は、その後の作品、「銀の三角」で、ほんの一シーンとしてですが、「原初の海」である少女ラグトーリンを描きました。
それに続いて、「マージナル」、「海のアリア」、「バルバラ異界」では、「生命の海」をテーマとして描きました。
この「生命の海」は、「死滅」し「復活」する海、あるいは、その「復活」の希望です。
「バルバラ異界」では、その復活を一人の少女、青羽が担います。
ですが、萩尾望都の「海」は、光瀬の生滅する「海」ではなく、「生命律動」、「生の意志」としての「海」です。
原作文庫版の「海」には、転輪王という「父性」の存在と、阿修羅王という「少女」の存在が濃厚です。
ですが、萩尾が書くに至った「海」は「母性」的です。
