人間の脳には、右脳と左脳があり、そのどちらかの働きが優勢なのを右脳型・左脳型と一般的に言われているのをお聞きになった方も多いと思う。
右脳が優勢に働く人は、感性が優れ、本質を捉えることなどに長けていて、左脳が優勢に働く人は、言語能力が優れ、理論的に物事を捉えることなどに長けている・・・これを、右脳型・左脳型と巷では言っている。
以前にも書いたが、ツインソウルの彼と私はこの脳のタイプが正反対なようだ。
ツインソウルの彼は理系の右脳型。空間認識力がずば抜けてすごい。限られたスペースに大量の荷物を積むときなど、まるでパズルのように簡単に収める。さらに、ものの本質をズバリ捉えることに長けているので、皆が考えもしなかった発想が彼からは飛び出てくる。創造的なしかけの道具を操ることに秀でているし、音楽の感性も素晴らしい。身体を動かす事を得意とし、スポーツ万能である。が、文系的なものの考えは苦手のよう。言葉でのコミュニケーションがどうにも上手くいかないところがあり、伝えたいことを自分の感覚で話すので、わけのわからない話になってしまう事が多い。言葉をパズルのように考えるところがあり、それはそれで面白いのだが、彼の綴る文章は当て字が多用されていて、ある意味で読解力を必要とする。音楽でも、譜面どおりの演奏を不得手とするところがあり、注意を受けることが多い。
私は、文系の左脳型。インプットもアウトプットも言葉で捉えることを得意とする。面白いことに、夢などでもイメージより言葉が印象的な夢をよく見るし、落ちているゴミとか目にした書とか、流れてきた音楽の歌詞や題名から言葉として感じることがメッセージだったりすることがある。説明は言葉で理論的にしてもらった方がすんなりと頭に入っていく。さらに、目にとまった言葉や文章から色々と分析して読み取ることを得意とする。情報収集が得意で、気になったことはとことん調べるし、それが大好きでもある。が、数学や物理といった理系が大の苦手。これは、何度教えられても説明されても、どうしても理解できない世界なのである。正直、よく学校で単位がとれたなと思えるほど(^^;四則演算等の計算は得意なのであるが、それ以外のことは難解に感じてしまう。見たまま感じたままを味わうことがなかなかできず、頭で考えすぎるきらいがある。自由な発想が一番苦手で、決められた枠のなかで物事を忠実にこなすことのほうが性にあっている。音楽も譜面を読んでそのとおりに演奏することに集中しやすく、自分を表現するという感性の音楽がなかなか出来ない。スポーツはどちらかというと苦手である。
こんな調子で、まるで正反対の私達。
そのコミュニケーションも自然と難解になるのはお分かりかと思う。
だがなのだ。
最初のうちこそ難解であったはずのコミュニケーションが、そうでもなくなっているのに気がついた。ひとつひとつ、彼を理解するごとにコミュニケーションがスムーズになっていく。さらに、自分が不得手だと思っていたことに自ら興味を示すようになった。決して上手には出来ていないのだが、出来ないと尻込みすることがなくなっている感じなのだ。
自分流の考え方のこだわりを手放し、そういう見方もあるんだなぁ・・・と受け入れていくうちに自然とそうなっていった。面白いので真似すると、新たな発見があったりして自分の意識が大きく広がっていく。ものの見方に幅が出たと言えばおわかりになるだろうか。
今までも、ものの見方や性質が正反対な人達はいたが、まず理解できずに疎遠になることが多かった。もちろん相手の方も私が理解できなかったようで、そういった方々とは根本的に意思疎通ができないものと諦めていた。
が、彼は違うのだ。
どんなにぶつかっても、接することを諦めないで真正面から物事を受け止めることができる。どうせ無理と諦めることがない相手なのだ。
ケンカをしているときは正直辛いものがあったし、実際に憤っていた。しかし、冷静になって自分をみつめると、そこに自分自身の問題点を必ずといっていいほど発見する。そしてその度、相手への理解とともに自分自身の反省が促され、彼への愛おしさがましていく。
こうやって彼を理解するごとに、彼以外のものの見方が違う方々の気持ちも理解出来るようになり、自分のものの見方も自然と矯正されていった。結果、私自身が大きく変化したのである。
あるブログにこんな事が書いてあった。
悟りは「差取り」とも言います。
つまりわたしとあなた、自分と他人という分離意識を取ることという説明の仕方です。
また右脳と左脳の同期化という説明もあります。
〈中略〉
座禅や瞑想で一時的に右脳と左脳が同期化することがあります。
この右脳と左脳の同期化という説明がとても腑に落ちた。
人は、右脳型の人も左脳を、左脳型の人も右脳を持っているのが普通であると思う。そして、おおかたの人は両方を使って生きているはずだ。ただ、より活性化しているのが右か左かだけの違いであろうと私は思っている。
そう、どちらが良いわけでも悪いわけでもない。
どちらも必要であり、どちらも大事なのである。
よく、右脳を発達させると素晴らしい能力が発達するという教育法を見聞きするが、これは左脳優位な方が多い世の中だからこそ使える宣伝文句であったろうと思う。
論理的な左脳は男性、直感的な右脳は女性を象徴する。また陰陽の世界では、左は「火足り」と言われ陽の極を、右は「水極り」と言われ陰の極をあらわすと言われ、左は男性を右は女性を象徴するものとみなす。
そう言うところからしても、左脳が優位ということは男性性が優位な社会であったということだと思う。そう、今までは。
だが、世の中は変化している。
最近、発達障害という個性をもった人達が増えているという。
そういう方々と接していると、考え方はどちらかというと右脳よりに思えてくる。その独創的な発想はどこからくるのか、いつも不思議に思うことが多々ある。だが、彼らは論理的に物事を捉えることが苦手なようで、社会に上手くとけこめないでいる。
ちなみに、ツインソウルの彼も、軽度の発達障害ではないかと思うふしがいくつかある。友人に指摘されるまで、「発達障害」という言葉自体を知らずにいたのだが、そういう人々がいる事実を知らされ、また、そういう方々と接する機会を得るにつけ、なるほどと思うようになった。
彼らは、今の社会では「奇行」と思うような行動をしがちなのであるが、それは、ひとつの個性でありどうすることも出来ないもののようなのだ。だから、彼らを常識の枠にあてはめて変えようとすることは、彼らの存在を否定するも同じ。ありのままの個性を「受け入れる」ことが大事になってくるのである。そもそも、彼らの行動を「奇行」と思ってしまう考え方がおかしいのかもしれない・・・などと、常識とはいったいなんなのだろう?と考えさせるに十分な要素を彼らは持ち得ている。
ツインソウルの彼が発達障害なのかどうか、本当のところはわからない。
だが、「ありのまま」の彼自身を受け入れることがとても大事であるのは同じこと。私の常識を彼に当てはめて考えても無駄なのである。彼は彼であり、私は私なのだから。
この事から、発達障害という人々が増えているのは、きっとわけがあると思うようになった。男性優位の考え方をする「社会」や「常識」に囚われた世の中を崩す役目が彼らにはあるのではないかと私は思うのだ。凝り固まった社会に風穴を開けるに必要なエネルギーが彼らにはあるのではないか。
彼らの個性を受け止めていく作業は、考え方の差をなくしていく作業そのもの。それが、先のブログの言うところの「差取り」であり、「悟り」なのであろうと思う。そうして、世の人々に「悟り」を促すキーパーソンになるのが彼らではないか。そんな事を思うのである。
以前に、ツインソウルの彼相手では思考が停止すると書いたことがある。
私の中には沢山の思考が渦巻いているのだが、彼を目の前にすると一言もその思考を言葉にあらわせない。彼を目の前にしないでいられるメール等では思いのたけを書ける。が、それはほぼ一方通行で結局彼と対話していることにはならない。電話をしても、まずつながらないし、つながっていたはずのSNSも切ってくれた(^^;そうなった以上、彼と意思疎通をするのは面と向かってしかない状態におかれている。そんな彼の行動が、無意識的に私が思考することを封じているような気がするのだ。
彼の存在そのものが私の思考をとめているのである。
そうなると、どうなるか?
私は私自身に向かうしかなくなるのである。
これは、なんなのだろう・・・と思っていたが、先のブログを読んでいて思った。
これは、「瞑想」をしているようなものではないか・・・と。
彼との向き合いは、右脳と左脳の同期化をしている感じそのものであり、瞑想状態によって自分自身を内観している感じなのだ。
これは、あくまでも私自身の感覚であるので、確かなことは言えない。
だが、そうとしか取れない出来事が山のようにあって、私自身を見つめ直す手助けを間接的に無意識的に彼がしてくれているように感じるのである。そうやって、自分自身をとりもどしていっている感じが私にはある。
そうして、自分をとりもどし個を保ちつつ、相手と同期化するというのが、ツインソウルの彼と私の言うところの「溶け合う」ということなのだろうと思う。
これは、性的なところでいうところの「オーガズム」であり、ヨガで言うところの「サーマディ」の状態なのではないか?そして、これが一般的に言われる、ツインソウルの「統合」なのではないか?それは、「悟り」そのものなのではないか?
悟ったわけでもない現段階の私には、これ以上は言えない。
だが、これは「悟ろう」として何とかなるものでもなかろうし、「統合しよう」としてなんとかなるものでもないのではないか。
それこそ、流れのままに、あるがままに身をまかせるしかないと私は思うのである。