複雑な思い

 

日頃からSNSで交流している僧侶の方が上京されるので、初めてお会いすることに。

普段から聖天様のお話をよくしていたこともあり、

「お寺で落ち合いましょう」という流れになりました。

 

 

さらに参拝後、その方が好きなキャラクターの商業施設にも同行してほしいとのご要望、

予約まで取ってくださいました。

 

 

土地勘のある同行者が必要なのだろうと受け止め、

これも浮世の義理とお引き受けしました。

 

当日、ボクは張り切って予定よりだいぶ早くお寺に到着。

 

途中の経過は省きますが、結局その方はお寺に現れず、

参拝をすませた僕だけが急いで商業施設へ向かうことに。

 

合流した際も、その方は悪びれる様子もなく、ひょうひょうとされていました。

 

 

キャラクターとのグリーティングを済ませた後に

他でもなく僧籍を持つ方が、平然としている姿を見て、

胸の内で唸ってしまいました。

 

 

阿闍梨さんのアドバイス

 

この出来事を、すでに還俗した阿闍梨位の友人に愚痴混じりに話したところ、

いくつか指摘を受けました。

 

• 天部を熱心に信仰する人には、独特の気質の方が多いこと。

 

• 特に聖天様の信徒には、僧侶・在家を問わず、

 社会性に難がある人が一定数いるので注意した方がよいこと。

 

• 仏教界隈ではそうした見方が浸透しており、

 同列に扱われるのを避けるためにも、

 お不動様など一般的な仏様を前面に出した方が無難なこと。

 

これを聞いて、なんとも心中、複雑でした。

 

 

聖天様と処世術

 

ボクは聖天様が大好きですし、信心に迷いはない。

 

その上で、やはり大日如来の最終方便の尊であられる訳で、

自分を含め、信徒はどこかに“難”を抱えてしまう場合があるかもしれない。

 

あるいは、聖天様は首から上はゾウさんであられる。

社会性や体裁といった人間社会での価値基準とは異なる尺度でお導きになるのかもしれません。

 

勿論、こんなことを書いているボク自身、

もしかしたら、社会性が欠落していて、

気づかぬうちに、聖天様の面汚しになっている可能性だってあります。

 

 

いずれにせよ、聖天様は厨子の奥に秘められておいでになる尊格。

そのお姿になぞらえるなら、信心の形もまた、秘めてこそ華なのかもしれません。

 

 

聖天様への想いは純粋でも、処世術としては気を付けるべき点がある。

そんな現実を突きつけられたような出来事でした。