先の選挙で大敗した民主党のが薄い。
野党第一党としての存在感もない。
結局やったことと言えば増税だけ。
そんな印象も拭えない。

野党がしっかりしないから自民党もやりたい放題。
アベノミクスで浮かれている間に、補正予算でしっかり公共事業が復活している。
復興や防災、補修、補強の事業ならいざ知らず、凍結されていた新規事業がゾンビの如く復活しているのだ。

巫山戯た先祖返り
自民党はやっぱり自民党で、体質は何一つ変わっていない。
三つ子の魂百まで。
百まで踊り忘れず。

生まれ変わることなど幻想だったようだ。

報道ステーションで九州出身の自民党代議士が、閑散とした高速道路の開通を誇らしげに喜び、新たな道路の延伸を財務官僚に電話で言い含めるシーンを流していたが、その姿の醜悪さに吐き気がした。

メディアに堂々と取材させる厚顔無恥ぶりには呆れるばかりで、ボクが自民党幹部なら「実態を晒した罪」で罰するだろう。
お陰でボクらは自民党が何の反省もしていなかったという重要な事実を知ることが出来たワケで、国民としては表彰したいくらいではあるが・・・。

小泉進次郎が「自民党は変わらなければ今度こそ国民に見放される」と言っていたが、早速馬脚を現した先輩議員に何を思うのか。

こうなると民主党の期待はずれがつくづく残念である。
コンクリートから人へという哲学は本来正しく、実現すべきことだったはず。
拙攻が重なり、自民党に付け入る隙を与えた。
チャンスをモノに出来なかった代償が、ゾンビの復活だったわけである。

バイオハザード。
救国のアリスは何処にいる・・・。

ボクの記憶が正しければ、昔、フィギュアスケートには8の字図形を正確になぞって滑る「規定」というものがあった。
全く地味なもので、見ていて面白いものではなかった。
そのせいか、いつの間にか「規定」はなくなり、現在の「ショート」と「フリー」で競われるようになった。

テレビの普及で、スポーツにも「面白さ」「派手さ」が求められるようになった。
柔道が「JUDO」となったのも、そうした時代の変化の結果である。
とにかく動かないと「指導」をとられるから動く。
動くが技が未熟だから一本が取れない。
下手なボクシングのように組み手を争い、下手なレスリングのようにタックルする(ルールが変わって禁止となったが)。
柔道は「JUDO」となってオリンピック競技として生き残っている。

レスリングが商業オリンピックの粛正を受けようとしている。
古代から続く歴史あるスポーツ「レスリング」。

人気がない。
視聴率がとれない(スポンサーがつかない)。
ルールが分かりにくい。
それらが噂される除外の理由。

世界最古の格闘技とも言われるレスリング。
あのプラトンもレスリングが得意で、大会で優勝したことがあると伝わっている。
レスリングは古代オリンピックで人気の競技であったのだ。

レスリングにはフリーとグレコローマンの二つのスタイルがある。
ギリシャとローマ。
この由緒正しき古代都市の名前を冠されたグレコローマンスタイル。
腰から下を攻めも出来ず、足技で攻めることも出来ない。
禁忌の多いストイックなスポーツ。
上半身だけの力業は確かに見ていて派手さはないし面白さにも欠ける。
だがスポーツを、それだけの観点で評価して良いものなのか。

何かが違っている

派手さ面白さに限れば、カヌーや馬術、ホッケーなども日本人の目にはつまらなく見える。
ヨーロッパで盛んなフェンシングが日本で認知されたのも、太田雄貴の活躍があればこそ。
結局はIOCの委員がどの競技に肩入れするかという全く恣意的な基準でしかない。

これは歴史の愚弄である。
歴史の冒涜である。

そもそも面白ければ良いというフジテレビ的発想は、ことスポーツに於いては違和感を感じる。
レスリングメダリストがこう呟いていた。
「面白さならプロレスで良いじゃないか・・・」。

ロビー活動の不足という話もある。
だが、そんな「政治力」が物言うこと自体がスポーツにはそぐわない。
政治と経済の論理が優先するオリンピック。
そこから見直すべきなのだろう。

オリンピック至上主義、金メダル至上主義。
オリンピックも金メダルも関係なく、スポーツは存在しているし存在すべきなのだ。

オリンピックがなかろうと、レスリングが好きならレスリングをやればいい。
策略と金にまみれたオリンピックに変節を余儀なくされるくらいなら、プラトンの名に恥じぬままヒッソリと生き抜けばいい。

武道である柔道が「JUDO」となり陳腐な格闘技に成り下がってなおオリンピック競技として生き続けることを良しとする人間ばかりではないのである。
AKBの峯岸みなみが坊主になった。
週刊誌の報道を受けて「謝罪の意」を示す行動であるらしい。
AKBは恋愛御法度
組なら切腹である。

テレビで丸刈りの峯岸みなみを見て、スポーツ界を騒がせている女子柔道の暴力騒動と似たようなものを感じた。
もちろん秋元康に強制的に丸刈りにされたワケではないが、「恋愛禁止」という前時代的な法度を設定すること自体が強制であり暴力的だとボクには思える。
年頃の女の子は恋愛するのが当たり前で、するなというのは体罰同然である。 命ぜられずとも自ら髪を切る決意に、目に見えない強制力の強さを逆に感じたりもする。

じゃあAKBに入らなければ良いだけのことだが、今をときめくアイドルグループにアイドル志願の女の子が入りたがる気持に寄り添えば、そう冷たく突き放せもしない。
「恋愛禁止」なる御法度は、そんな女の子たちの気持ちを弄んでいるように思えなくもない。

女子柔道の園田監督が辞意を表明した映像の後に、峯岸みなみの坊主頭が放送され、似たような精神構造を感じたワケだが、桜宮高校であったような教育現場での「体罰・暴力」と今回の件は全く違うと思っている。

実際、どのような行為があったのかは不明だが、格闘技を指導する現場で「一発気合いを入れる」ような行為があっても不思議ではない。
戦いは恐怖であって、恐怖を克服する手段として「頬を張る」程度のことはあり得ると思うのである。
事実、自分で自分の頬を張り気合いを入れることだってあるだろう。

「死ね」という暴言を吐いたことも問題になっているが、大津のいじめ事件で「死ね」と言うのとは意味が違う。
「死んでまえ!」「殺すぞ!」
お笑い芸人が公共の電波で平気に口にするように、何も本気で言っているワケではない。

アントニオ猪木は請われてビンタする。
闘魂注入。

その構図が成立するのも、この国にそういう精神風土があるからである。
叩かれて注がれる闘魂。
叩かれて奮い立つ精神。
そういうものだと信じて疑わない風土。

そこに根っ子がある。

だが監督が皆アントニオ猪木ではない。
皆が闘魂注入を望んでもいない。
そのズレが境界線である。

指導か暴力か。


繰り返すが、学校スポーツという教育現場での「体罰・暴力」は無意味である。
桜宮で行われていたと言われるように、何十発も殴るなど論外である。