こおろぎ


賣旨 治 様


 わたしは、もうこれ以上あなたとご一緒することができません。


 わたしは、これまでに何度、今日こそはと意を決してこのことをお伝えしようとしたことでしょう。けれど、いざあなたを前にするといつも言えなくなってしまいます。わたしがそれを口にする前にあなたはいつも素頓狂なことを言ってするりとわたしをおかわしなさいます。「現代の奇病、健康病。どうだい? アンニュイな感じがしないか?」「宇宙からは何も引かれないし、宇宙には何も足されないのだ。気にするなんて馬鹿らしい」「何でも彼でもやり遂げようとすること勿れ、だ。ちょっと出かけてくる」 無学なわたしからすれば具にもつかないことに思えるのに、あなたが神妙な面もちでそうおっしゃると、まるでストーブの天板に置いた氷みたいに意を決していたはずのものがあっという間に溶けて空気にまざって消えてしまうのです。哀しいだのやるせないだのあんなに思いつめていたはずの感情が、滑稽で間の抜けたとても馬鹿らしいものに思えてきてついには口に出すことができなくなるのです。

 でも、今回ばかりは、あなたの魔法が完全に解けてしまいました。繋がれていた糸のようなものがプツリと切れたその音が確かに聞こえました。最後まで残っていた金星Venus も夜明けの空から消えてなくなりました。


 日曜日の朝早くに得下さんが訪ねて来られて「賣旨君がうちの、」と言いかけてお芝居みたいにやや間をおいてから「美枝子さんには言いにくいんだけど、チャーコと奥多摩で入水自殺をはかったらしいんです。幸い二人とも命には別条はなくて、これから病院に行くところです。美枝子さんも一緒にどうかと思いまして」と言われました。わたしは、どうせまた架空取引所の相談か何かで来られたのだろうと思っていましたので、入水自殺と聞いても最初は何を言われているのか飲み込めませんでした。ようやくそのことを理解すると、猛烈に腹が立ってきました。わたしには言いにくい? わたしも一緒にどうかと思った? わたしがあなたと千矢子さんのことを知っているとわかっていながら、言いにくいだなんて。出版社の編集長たるもの人の感情がわかる方がお努めになるものと思っていましたが、こういう社交辞令を平気で言える方こそふさわしいんだ。わたしがどういう顔をして病院へ行き、そこであなたや千矢子さんに何を話すというのでしょう。わたしは、腕時計に手をやりわたしの返答を待っている得下さんに、わたしは行けません、とだけ答えました。得下さんは、わたしから聞いたわけでもないのに、奥さんへは既に電話したともおっしゃいました。得下さんは、わたしの反応を見るためにわざわざお訪ねになったのではないかとさえ思いました。けれど、わたしの行き場のない苛立ちの源は、あなたもわかっていらっしゃる通り、そんなことではないのです。得下さんへの憤りは腹いせにすぎないのです。怒りの矛先を変えたにすぎないのです。


 銀座のカフェの扉を開けるとカランコロンとゆっくりとした鐘の音が鳴って、カウンターの隅にいらしたあなたがこちらを振り向き、ほんの一瞬、わたしと目が合いました。東北の実家を追われるようにして、二等寝台でその朝早くに上野駅についたもののどこへ行く当てもなく、ラヂオのパアソナルテイが銀座の何処そこは...、銀座でどうのこうの...、自慢げに話すのをよく聞いておりましたので、夢遊病者のようにいつの間にか銀座の街を歩き、何の気なしにそのカフェの扉を開けたのでした。わたしは、カウンター席とはできるだけ離れた窓側の席に座りました。故郷の訛りが出ないように注意してミルクカフェを注文しそれを待っていると、あなたが近づいてくるのがわかりました。「ここ、いいですか?」わけがわからず唖然としているわたしの返事を待つこともなくあなたはわたしの前に腰掛けました。まだ陽気のつづく初秋でしたが、あなたはもう黒いマントを羽織っておいででした。

 あなたは席に着くやいなや、その日初めて会ったわたしの目を見据えてこうおっしゃいました。

 「僕と一緒に死んでくれないか」

わたしは、驚きました。その唐突で乱暴とも思える申し出に驚いたのではありません。わたしが考えていたことは、そういうことだったのだ。わたしの心の奥底でうごめいていたもの、形もなく言葉にできなかったもの、確かに自分の中にあるはずのものなのに自身ではその正体がわからなかったもの。それをカランコロンと鐘が鳴り目が合った一瞬のうちにあなたはわたし自身が知り得ないわたしの心の奥底を見透かしてしまった。本当に驚きました。衝撃を受けました。雷に打たれて電流が流れたとしたらこんな感じではないかと思いました。即座にわたしはあなたの目を見て「はい」とはっきりお答えしました。あなたはわたしがそう答えることをずっと前から知っていて、こうなることが初めからわかっていたかのように、わたしを連れてそのカフェを後にしました。そして、その日から5年目の春を迎えた今日の今日までその魔法は解けることがなかったのです。


 あなたが文壇の雄と呼ばれている流行作家であると知ったのは、あなたが船橋の一軒家を借りてくださってからひと月ほど経った頃のことでした。文芸やら芸術やらに疎かったわたしには、あのカフェでお会いした時、あなたが有名な方であることなどついぞ知る由もありませんでした。

 船橋に住み始めた頃はあまりご自宅に帰らず、長い間うちにお泊りになることが度々あって、わたしが言うのもおかしな話しですが、もう少しご自分の家庭を大事にされたほうがいいんじゃないかと思うことさえありました。それが時が経つにつれて、何日かお泊りになったかと思うと、ちょっと出てくるとおっしゃったきりしばらくお戻りにならない、そんなことが増えるようになりました。それでもわたしは、ああ、この人とわたしは死ぬのだ、と思えば寂しいとかまして嫉妬心のようなものは微塵も湧いてきませんでした。


(こおろぎ2へつづく)


あとがき

 むむむ、fxまでたどりつかない。それどころか、こおろぎもまだ出てきてない。設定ミスだ。

 万が一、fxと思ってこれを見た人がいたら、なんじゃこりゃ、と言うなぁ。タイトルがfxなんだもんなぁあ。。。もうひはけふぁひぃにゃひぇん。。。

 ま、どっちだっていいや。。。