道化のクレヨン
第1章「緩巻のセレクト」
紀伊
「私、人を殺したことがあるんだよね。」
僕は彼女の言葉を笑い半分、呆れ半分で受け止めた。
少し失礼だろうか?
しかし実際のところ間違いなく冗談なのだろうから、失礼では無いだろう。
秋も近いというに風が異常に冷たかったことは覚えている。
第1章「緩巻のセレクト」
先日、僕は先輩の紀伊さんと久しぶりに会った。
そこで僕は本を貸した。
好きな俳優が出ているドラマの原作だ。
それが確か十日前くらいだった。
9月8日。
「いいか諸君、世の中には二種類の人間がいる。」
紀伊はいきなりおかしな演説を始めた。諸君、と言ったが傍聴者は僕だけだった。
彼はまるで革命家を思わせるような手振りを交えて演説をしているのだが、僕は突然言われたその一言を当然、聞き流していた。
わかりきっているつもりだ。
どうせ、「勝ち組と負け組」とか「男と女」みたいな答えなんだろう。正直、興味がなかった。
だが紀伊の演説は僕の興味の有無などお構いなしに続いた。
「いいか、世の中には自分が一番才能に恵まれていると思っている小説家と、一番才能に恵まれているのは他人だと思っている小説家の二種類がいる。」
紀伊はそう言うと満足そうな顔で手を広げた。意外な答え。
僕は困惑しながらも、少しだけその演説の続きが気になって紀伊を急かした。
「それで、それが一体どうかし…」そこまで言うと紀伊は待ってましたと言わんばかりの顔で演説を再開した。
「自分が一番才能に恵まれているなんて思っている小説家は馬鹿だ、だからあんなムチャなストーリーで映画化ができるんだ。」
あー最近話題の人気小説家のことか。
どんな話をするのかと思ったが、何てことはない。ただの愚痴だった。
おかしな紀伊の愚痴に付き合うほど僕は暇ではなかった。
「もういいですか?それは世の中では愚痴に分類されるんです、わかりますか?」と演説のストップを図った。
しかし、ネジが取れかかっている紀伊には関係なかった。
「違う、愚痴なんかじゃない、続きを聞くんだ。」
何だ、続きがあるのか…愚痴の続きなら聞く気は無いが、違うと言うなら聞いてやろう。僕は黙って頷いた。
「逆に、一番才能に恵まれているのは他人だと思っている小説家は最高だ、文句なんてまったく無いね。」
何のことだかわからないが、やはりくだらない話だった。
「何だよその顔は?」
「いや、それより…そんな話をするために呼んだんですか?」だったら嫌だ。
駅前のファーストフード店に腰を下ろして一時間以上経っていた。
注文の品は空っぽ同然だったので、そろそろ店を出ようと思っていたところだった。
「あ、しまった…」この人は店を出る寸前まで本題を忘れていたようだ。
「とりあえず出ましょうか。」
少し混み合ってきたので僕たちは店を出た。
店を出て、駅から少し離れた並木道を歩いていた。
その時も延々と小説家の話の続きを聞かされた。
電気街が見えてきたくらいで、「じゃあな。」
紀伊は話すだけ話してニコニコしながら帰った。
「あの人は一体何の用で僕を呼んだのだろうか…。」紀伊の後ろ姿が小さくなっていった。
まあいいか。
そう思った300メートル向こう。
紀伊は、のろけ話のことを思い出した。
「あ、しまった…」紀伊は結局、最後まで本題を忘れていた。
(次回掲載予定は3/1です)