「言ってることは間違ってないと思うんだけど、一方的っていうか、こうしなさい、みたいな書き方が学校の先生みたいでちょっとね」
友人が中学3年生になる息子さんにある啓発本を読ませたときの読後の感想で言ったひとことだそうです。
そのエピソードを見聞して、思い出した事がひとつ。
それは、昨年、中学校のPTAでのお役目を引き受けたおかげで先生ともお話をする機会を得た中で、都市部のマンモス校から赴任してこられた僕より少しだけ年上の数学の先生の一言でした。
「「書いてないから解らない。 教わってないから出来ない。」 最近、ちょっとひねった応用問題を出すとこれを言う生徒が多いんですわ。
以前は、「どうやったらこの問題を攻略できるか?」って、生徒のほうが面白がって食いついて、必死になってくれたし、その必死なうちは、ある程度ギブアップするまで、ヒントも出さずにじっと待つ。そのうち、ぱっと閃いて解答を出してくる子が出てくると、さらにほかの生徒も負けじとヒートアップしてくれる。
で、ギブアップしかけた生徒に、ヒントだけ与えて、あともうひとひねりだけ頭を使わせる。
最後の最後に答え合わせと解説すると、実は、解けなかった生徒のほうこそが何とも悔しそうな顔してくれる。その反応が、教える側の「手応え」なんですけど、最近、その手はなかなか、通用しなくて。あと、もうひとつ困りモノが「それ、塾でやった」という冷めた反応もありましてね。
そういう「授業の先にある「発見と好奇心を刺激して、教室中のみんなが一緒になって「授業で遊ぶ」という「ゆとりある空気」が持てなくなってきた「ゆとり教育」というオチですわぁ」」
授業を受け持つ先生たちの現場の苦労は、試行錯誤の先に、結果として「一方的にこうしなさい」と言わざるを得ない現実もあるのではないか?
それは、だれあろう、現場で奮闘している先生こそが、「不本意な思い」に駆られていることもあるのではないか?
だとしたら、教える側の努力と教わる生徒の側の意識を変える(それは、もう、全面的に親の責任である)双方向の努力がなくして成り立たつハズはない。
友人の息子さんたちのような発想の子供たちが増えてくれたら相当すごい「かたち」になっていくハズなのにと思ったのでありました。
これまで、親の責任として
「好奇心を逞しく、発見と感動に喜びを感じなさい」
と息子に言い聞かせてきました。
おかげで、「学校が楽しくてしょうがない」という息子を見て(昨日、学期末試験が終わって久々に太鼓をたたいて「ストレス発散したぁ!」とほざいてましたが)そのことが間違いではなかったと改めて思うのでありました。