さる夜のこと。
Barの止まり木に腰を下ろした僕に、バーテンダーさんから「何にいたしましょか?」
このバーテンダーさんの技量の高さには、常々より敬服しておりますので、こちらにお邪魔したらカクテルを戴かねば。
...お願いしたのは、マンハッタン。
バースプーンをステアする所作からは、「心を込めて一杯を作り出そう」というバーテンダーさんの思いが伝わってきます。
まさにバーテンダーさんとは磨き上げらた技を持つ「職人さん」であることを実感する瞬間。
僕がBarという空間をこよなく愛するのは、こうしたプロフェッショナルと出会えることも大きな理由のひとつにほかなりません。
「お待たせしました」
目の前のコースターに置かれたカクテルグラス。
しっかりと冷やされた証である白く霜が覆うグラスに鮮やかなルビー色の一杯が注がれ、何ともいえない美しさであります。
今日のこの一杯に感謝して、ひとくち。
うん、イケる。
美味しさに頬を緩めたところで、カウンターの向こうから発せられた一言は
「バイアリーさん、すいません、作り直します」
「いや、これ、イケますよ」と僕。
「ダメです。作り直させてください」とバーテンダーさん。
その一言を言うと同時に、バーテンダーさんは、コースターからグラスを取り上げてしまわれました。
納得のいかないものは、お客さんが満足していても自分自身のプロフェッショナルとしての誇りと何より、
「お客様へ最高の一杯を届けたい」という「誠意」
がそれを許さないのですね。
その心がけ、お客への愛情とありがたく受け止めさせていただきます。
あなたというプロフェッショナルと出会えたご縁に感謝です。
では、よろしくお願いいたしますね。
再度、取りかかろうとしたバーテンダーさんでしたが、僕の背中越しに何かを確認されたご様子。どうやら、急を要する気配。
まあ、Barでは、よくあること。用件を納めて、落ち着いて一杯が作られるのを待ちましょう。
と、思っていると
「バイアリーさん、とりあえず、これ飲んでてください」
目の前に置かれたのは、先ほど自ら取り上げたマンハッタンでした。
すでに時は経ち、せっかく冷やされたグラスから霜は消え、お酒が温くなっていることは遠目にも明らかでした。
えっ?ここまでのやり取りはいったい何だったの?
あなたが、自ら納得できないからと取り上げたハズではなかったのですか?
お客を待たせてでも最高のものをという、プロフェッショナルとしての誇りと誠意はどこにいったのですか?
おそらく、すでに僕を待たせて、さらに待たせる事を申し訳なく思っての「とっさ」の対応だったのでしょう。
でも、そんなことは、作り直して下さるのを待つ事にした瞬間から、気にはしませんよ。まして、さらに待たせてでも応対しなければならない「火急の事態」ならば、なおさら遠慮なさらずに。
それが、客として職人さんへのリスペクトであり、そして、そこには、お互いにこれまで培ってきた「信頼」のふた文字があるではないですか。
用件を対応するため、店の外に出られたバーテンダンさん。
残された僕は、すっかり温くなったカクテルグラスを眺めます。
いったん下げたものを再度あっさり客に出す。
たとえば、レストラン。
料理が出され、いったんナイフとフォークをいれたお皿が、「作り直します」と下げられ、そして、またテーブルに戻ってくる。
出来たてで湯気が立ち上っていたはずのお皿からは、すっかり湯気もなく、冷めてしまったお皿。そこに添えられたのは「とりあえずこれを」の一言。
イカンと思うよ。
飲食の世界、これだけは「ご法度」だと思いますよ。
そんなことはさておいて、何よりこれまでに培ってきたはずの「信頼」のふた文字ってなんだったんでしょうね。
「いつまで待たせんるんだ」って言うと思われちゃったのかな。
僕が思っていたほど、お客として、人として、僕という人間を信じてもらえなかったのかな。
出されたマンハッタンよりも、実は、それが、一番悲しかったんだな、僕は。
まだまだ、人として信頼されるに足りない未熟な自分を思い知らせ、泣きそうになったある日の夜でした。