今朝報じられたニュースで、この国はまた一人、大切な人を失ったことを知りました。
「紙とペンさえあればものは考えられる」
在りし日の故人の口癖だったそうです。
「発明家になる」という夢を抱き、官庁の技術開発技官として業績を上げた後、その地位をあっさりと捨て、故人の兄が立ち上げた「町工場」に参加します。
故人の兄上そして二人の弟さん。そこに集まった4人のご兄弟は、固い結束によって
故人が発明し、
そのアイディアを末の弟さんが図面に引いて設計し、
長兄と三男のお二人が商品化して世に送り出す
というまさに「四人五脚」で町工場を世界に冠たる企業へと育て上げたのです。
町工場から生み出される製品は、「世界初」の冠頭詞が付けられて来ました。
町工場が大企業へと成長していくなかで長らく技術開発のトップを勤められたのちに、後進へ道を譲り、自らは大企業の「会長」という職に就かれたものの、技術者・発明家であることに変わりなく、故人の陣取る会長室は、さまざまな実験装置や設備が持ち込まれさながら専用の実験室。
その部屋で、開発に勤しむことが日課であったそうです。
僕が、故人から薫陶を受けたひとつの言葉があります。
「『必要は発明の母』は昔の警句で『発明は必要の母』であるべきだ。ユーザーがまだ必要性を感じていないものを示して、必要だと感じさせるような発明をしなければならない」
この故人の言葉こそ、僕の信念として定めた
「テクノロジーは人の幸せに資するものでなければならない」
という想いを確信できる「心の礎」となっている言葉なのです。
生前、直接にご薫陶を受けることが出来なかったのが本当に悔やまれます。
第二次世界大戦が終わり、日本中が焦土と化したなかで、「独創性」を何よりも重んじ、世界に先駆けて「ものづくり」に邁進していくことで、その先にある国の繁栄と人々の幸せを真摯に希求された故人は、すべての日本人の恩人であると僕は思っています。
そして、今、あらためて「国造り」とは「日本人の誇り」とは、一人ひとりが胸に手を当てて考えなければならないと痛感します。
故人の生前のご功績に敬意と深く感謝をし、そして心から哀悼の意を表します。
本当にお疲れ様でした。
どうか、安らかに。
いえいえ、きっと、天上でも「紙とペン」を握りしめておられることでしょう。
**** 朝日新聞訃報欄より抜粋転用 *****
樫尾俊雄さん(かしお・としお=カシオ計算機名誉会長)が15日、肺炎で死去、87歳。葬儀は近親者で営まれた。後日お別れの会を開く。
4人兄弟の次男で、1957年に兄弟と一緒にカシオ計算機を設立し、技術開発の中心を担った。電気回路を用いた世界初の電気式計算機を開発し、57年に発売。72年に開発した世界初の個人用電卓「カシオミニ」は600万台の大ヒットとなり、電卓の「ひとり1台時代」を切り開いた。
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