久々にびっくりのニュースが飛び込んできました。


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記事によれば、東大寺・大仏殿内で明治時代に見つかった国宝・鎮壇具(ちんだんぐ)のうち2本の刀が約1250年間、所在が確認されていなかった正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようのほうけん)」「陰寶劔(いんのほうけん)」だと判明とのことです。

今回のニュースで僕は、幾つかのことに驚かされました。


そのひとつが、この刀がすでに明治時代に見つかり、「国宝」にも指定されていながら、それから100年以上たって、今回の発見となったということ。

手法は、「エックス線撮影」というかなり古典的なものを使っています。が、では、何故とっくに発見されなかったのか?

そこには、エックス縁撮影における「テクノロジーの進化」が大きな役割を果たしていると思うのです。

「解像度」をはじめとして飛躍的に進歩した現代のテクノロジーをもってして、ようやくこの銘文を写し出す事にようやく成功したと推察するのです。

今回の発見は、テクノロジーの進化を「世の中の役に立てたい」と真摯に取り組んできた名も無き多くのエンジニアや研究者の努力の勝利だと思うのです。

その努力の積み重ねに心から敬意を表する僕であります。



そしてもうひとつ驚かされたのは、この刀が記録として1250年もの長きに渡りきちんと伝承されてきたという事実。


報道によれば、「国家珍宝帳」という文書が遺されており、それは、聖武天皇の遺愛品を756年、妻である光明皇后が東大寺大仏に献納したことを記録して、その記録を正倉院に収めた「宝物の目録」なのだそうです。

今回確認された「陽寶劔」、「陰寶劔」は記録された大刀100本のうちで筆頭に記されている最重要の刀なのだそうです。


しかも、さらに驚いたのは、国家珍宝帳のうち、陽寶劔、陰寶劔は後に持ち出された「除物(じょもつ)の付せん」がある7点のうち2点なんだとか。

1200年以上前に付けられた「付せん」。これが連綿と伝承されている事実。

このことは、本当に大きな驚きでした。


正倉院には「献物出用帳」というもうひとつの記録が遺されているそうで、そこには、光明皇后が亡くなる約半年前の759年12月に持ち出されたということが記録として書き残されているのだそうです。

この「除物」扱いの宝物で、所在が特定されたのはこの「陽寶劔」、「陰寶劔」が初めてのことなのだそうです。


1250年もの間、連綿と記録を伝承し続けることのスケールの大きさと日本という国家において「天皇家」の存在の意味をあらためて深く考えさせられた僕でありました。




報道によれば、研究者たちの興味は「光明皇后がいかなる想いで、大仏の「ひざの下」にこの刀を収めたのか?」が焦点となっているようです。

歴史の事実を「正確にかつ客観的に知ること」は最も重要な事です。ひょっとしたら、単に「仏教の作法」に則った行いだったかもしれません。

でも、僕は、大仏の建立を悲願とした夫・聖武天皇への光明皇后からの「妻としての深い愛のメッセージ」だと思いたいのであります。




久しぶりにテクノロジーが人の心を豊かにしてくれるのを実感したニュースでありました。

そして、どうか、こうした「金にならない活動」が「事業仕分け」とやらの標的にされませんようにと心から願うぼくでありました。