さて、茶屋町のギャラリーを後にした僕。
何しろ日帰りをしなければいけない今回の旅です。新幹線の時間まであと少し。
とはいえ、このところすっかりエプ子さんとの時間が取れなかった僕にとって今回の機会はまたとない絶好のチャンスです。
この機会にちょっと立ち寄って生きたい場所がありました。
またしても時計の針を逆回しいたします。
時は、1987年。僕は、一年間を兵庫県伊丹市で過ごした後、大阪市に勤務先が変わりました。
当時の住所は「大阪市東区道修町(どしょうまち)」。今は東区と南区が合併して「中央区」となった大阪のメインストリート「御堂筋」に面したビルの一画が僕の居場所となりました。
この辺りは「船場」とよばれた大阪の商業の中心地。日本の名だたる名門企業や関西の老舗企業が軒を連ね、僕も沢山のクライアント企業を受け持ち、毎日歩き回った場所です。
江戸時代から繁栄していたこの場所は、明治大正そして昭和の時代、日本の経済の一翼を担った土地でありました。
そうした土地の歴史を映す鏡ように近代の名建築が今も遺されている貴重な一画なのであります。
そのひとつ、「生駒時計ビル」。
「御堂筋」と並らぶ大阪のメインストリート「堺筋」に面した一角に建つ素晴らしい名建築です。
竣工は昭和5年。
「時計店」にふさわしくビルの最上階に大きな時計塔を擁した外観が大好きでそれを見たさに、わざわざ堺筋の反対側に渡って眺めた事もしばしばだった当時の僕でした。
その「生駒時計ビル」が時代を経て当時面影をそのままにカフェに生まれ変わっていることを知りました。
しかもなかなか雰囲気の良いカフェであり、かねがね、是非行きたいと思っていた僕であります。
梅田から乗った地下鉄を降りて堺筋へ出ます。
この辺りは「北浜」。
東京の兜町と肩を並べる株取引の西の総本山。
ふと見上げればかつて「三越」があった場所には超高層マンションがそびえています。
この三越の建物も素晴らしい名建築のひとつでした。
時代の流れとはいえ、一抹の寂しさがこみ上げてきた僕であります。
視線を戻すとガラス張りの真新しいビルも建っているものの、でも、概ねその景色は当時のまま。
僕はすぐに街の空気に身体が溶け込んでいくのを実感しました。
足を南に向けて歩きます。
途中で「五感」を確認。
そうでしたか、新井ビルさんだったのですね。
このビルも大好きなビルです。当時は、中に入ることが出来ませんでしたが、今ならお茶を頂きながら中を拝見する事ができるのですね。
いつか大阪出張の折にスィーツ好きの男子(この辺りは散歩コースのはず)でもお誘いしましょう。
さて、懐かしい想いにひたりつつ更に南に歩きます。
(時計塔と再会です)
時計を見れば、時刻は16時を指すところ。梅雨の晴れ間の一日。アスファルトを照らす陽射しはすっかり夏。少し西に傾いたものの、この時刻でもアスファルトからは陽炎を立ち上らせるパワーがあります。
ひとしきり感慨にふけっていた僕の喉はすっかり渇き、早く冷たい潤いをと叫んでいます。
早速なかにはいることにいたしました。
昼下がりと夕方のちょうどあいだの静寂のひと時、お客さんは僕独りでした。
(スプマンテと生ハムで)
よく冷えたスプマンテの程よい泡の刺激が僕の喉に沁みていきます。
続けて生ハムをほおばると舌に残ったほど良いスプマンテの酸味としっかりと熟成の進んだコクのある肉の味わいそして沁みこんだ塩味が口の中で絶妙に絡み合います。
思わず「Buono!」と声を発した僕でありました。
スプマンテに続いてハイネケンの生をいただく事に。
そういえば、随分ハイネケンともご無沙汰でした。
ドイツのタコ君の予想では、どうやら厳しいようですが、ワールドカップのオランダチームへエールを乾杯を独り捧げた僕でありました。
ビールの泡の感触を楽しみながらながら、まったりとした昼下がり、この場所に来る経緯の思いを馳せていました。
ここがカフェになったと教えてくださったのは、「マスター様」
マスター様とのご縁もこのネット社会で恵まれたご縁です。
ご本人様とは、カウンター越しに一度ご挨拶しただけでゆっくりお箸をした事はありませんが、このご縁は、いずれマスター様に導かれた、大阪・京橋にの地で叶う事でしょう。
ネット社会の一期一会にあらためて感謝する僕であります。
ふと我に返ると、僕の隣のテーブルに女性の二人組、カウンターには常連さんと思しき男性が店員の方を交えて楽しそうに談笑しています。
まだまだ通りには夏の日差しが照りつけています。
時計は17時に差し掛かるところ、もう少しだけ時間があります。もうひとつだけ行きたい所があります。
カフェを出て、再び駅へ、今度は京阪電車に乗り込みます。
目的地は京橋。
そう、あの場所です。
「職人技堪能編」へ続く。