僕が良くお邪魔させていただく、ある方のブログにて、「音楽の複製におけるディジタル技術ついて」の記事を拝見いたしました。

その記事を拝見し、クリエーターとしての立場ではなく、ディジタル・テクノロジー領域の末席に位置する立場から「オリジナリティ」という観点で僕の思うところをまとめておこうと考えた次第です。




**** 注  記 ****


尚、その方のブログからは、今回のテーマを考える「きっかけとヒントを戴いたのみ」であり、以下の文章は、あくまで、僕の考えによるものであるとともに、その方の記事に対するメッセージあるいは意見表明ではないことを予めお断りしておきます。

以上により、その方の記事へのリンクはいたしませんのでその旨、ご了解ください。


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「音楽」にせよ「絵画」にせよ「写真」にせよ、すべての始まりは「内面にある感性の造形」であり(「イメージの明確化」という表現が的確でしょうか)、そして、その造形を具現化したものが「創造物」であると僕は思っております。
そして、その「創造する技術」として今日ディジタル・テクノロジーもが大きな一役を担っていると認識します。


さて、「具現化されてこそ創造」であると考えたとき「ディジタル技術によって」あるいはディジタル技術だからこそ」これまで具現化が不可能だった感性を造形することが「実現可能」となり、この世に送り出された「新種の創造物」が存在していると気付きます。

録音された音楽、描かれた絵画、印刷された写真など、どれも技術の進歩ととも「新種の創造物」を世に送り出してきました。
「打ち込み音源をエフェクトした楽曲」や「フラクタル幾何学の数式をプログラミングして描かれたCG」あるいは「レタッチ加工された写真」
そのどれを取っても、「ディジタル技術だからこそ具現化できた感性の造形」があると僕は信じます。

これらは、万人の認める事実として、まぎれもなく「独創的」なのであります。


その「技術そのもの」も含め、すべての「創造物」がもつ「オリジナリティに対してリスペクトできるか?」が、最も重要なポイントなのだと思うのであります。(発明・開発された「技術そのもの」にも当然ながらオリジナリティがあります)



「技術」は、あくまで「方策」に過ぎません。
かつて複製技術が劣っていた時代であっても、この「創造物のオリジナリティに対するリスペクト」がなければ、その複製物は、「ただの消耗品」として扱われていたはずです。
しいて言うならば、ディジタル技術の普及は、単にその消耗品の「寿命を飛躍的に延ばした」に過ぎません。

すべては



複製をする側の「オリジナリティに対する心(あるいは意識)の問題」



だと思うのであります。



ディジタル・テクノロジーの領域に身を置く者の一人として、この「創造物のオリジナリティへのリスペクト」を忘れてはならないこと、そして、そのオリジナリティの普遍的に持つ「価値と権利は決してこれを犯してはならないとあらためて心に期すのであります。