皆様ご存知の通り、「主食は液体」といって憚らない僕でありまして、かねてより「お酒博愛主義」を標榜いたしております。(まあ、単に「お酒に節操がないだけ」との声もチラホラ聞こえてくるのでありますが)
さて、そんな僕でございますので、お酒を美味しくいただけるお店へお邪魔する機会も多いほうだと思っております。
そうしたお店の中でも「生来の海育ち」の僕は、美味しいお魚をいただけるお店につい惹かれてしまい、いわゆる「和食」のお店の暖簾をくぐる機会が多いのであります。
その和食の店で、昨今いささか気になる事に出くわす事が多くなりました。
今日は、そんな事を書いてみたいと思います。
少し、前置きが長くなりますが、和食においては、その歩んできた「歴史」と受け継がれてきた「伝統」に培われた「独自の文化」が成り立っている事は、皆様も良くご存知だと思います。
また、その「文化」において、その中で確立している「作法」というものが存在します。
そして、この文化と作法を成立させるにあたって「陰陽五行」の思想が色濃く反映されているのだそうです。
余談ですが、この思想は、和食の世界のみならず、「茶の湯」や「活け花」はたまた「能」にいたるまで日本古来の文化の中で大きな「思想の礎」となっているのであります。
さて、その「陰陽五行」の思想においては、その指し示すとおり物事を「陰」と「陽」に分けて考えるという思想があります。
さて、話しを和食の世界に戻します。
かつて、和食の世界で長く生きてこられた方から伺ったお話しですが、この「陰陽思想」を基にして和食の作法を見るとき、その作法のなかで「陽」を重んじるものとして「盛り付け」があるのだそうです。
「和食の盛り付け」においては、先に述べたように「陽」を重んじる事から、陽の数字である「奇数」を「絶対の鉄則」しているのだそうです。
食材の盛り付けにおいては、その数は「奇数が絶対」でありそのなかでも「三、五、七」が特に好まれ、「偶数は、ありえない」とのことでした。とくに「四切れ」は、最も避けなければならない「和食の常識」とのことでした。
例外として、どうしても偶数を使う場合は、「夫婦(めおと)」に見立てて、その同じ素材を「大・小」にして盛り付ける事で「作法」としているのだそうです。
このお話しを伺ってから後、色々な経験を重ね、勉強し、知識を得る中で、今では、この作法が「絶対無二」のものとして僕自身の身体にも「感覚」として染み付いてしまいました。
そうした中で、昨今、和食のお店にお伺いすると、この「偶数」の盛り付けに頻繁に出くわすようになったのであります。
「和食」を名乗り、その暖簾を掲げるお店において、「ありえない」といわれるような「作法を無視した振る舞い」がなされる事に、どうにも「違和感」と「不快感」を持ってしまわざるを得ないのであります。
そして、何より僕が感ずるのは、やはり、その盛り付けられた「風景」がどうにも「美しくない」のであります。
和食の文化が「盛り付け」という中に「空間美の極致」を追い求めるという独特の文化である事をあらためて思い出す必要があるのではないか。
そのことを痛切に感じざるを得ないのであります。
「どこそこ産のブランド素材」を調理すれば、「そこそこ美味しい」に決まっています。
でも、それは、決して「料理人の力量」としては、半分しか評価されないのではないでしょうか。
半分は、「素材の力」だと思います。
「そこそこ」から真に美味しい「料理」へと昇華させる為に、培われた伝統と文化をきちんと身に付け、そして本来の「和の心」を「美意識の体現法」としての「作法」をもって「料理として創造する」ことが必要なのではないか。
「作法」とは、時代の流れに安易に迎合することなく、その「思想」を貫く事で保たれるものだということを再認識する必要があるのではないか。
そんな事をつい思ってしまうのであります。
「伝統」と「文化」とそして「美意識」
伝統の継承がしっかりとなされていると思われがちな世界でも「日本人の忘れ物探し」が避けられない時代になってきた。
その事に大きな危機感を持つ僕なのであります。