春のうらららかな日差しに包まれた先週の土曜日。
とある場所で、まさに「春ならでは」の景色と向き合った僕でした。
その場所には、
(こんな素敵な風景が広がっておりました)
「その場所」とは、そう、我が畑。
畑には、一面に「菜の花」が咲き誇っておりました。
この「菜の花」たち。
ちゃんと名前がございます。
「チンゲンサイ」、「ミズナ」、「コマツナ」。
そう、すべて、菜の花となるために植えられたものではありません。
これまで、冬の間、僕たちの食卓を豊かにしてくれた野菜たちなのであります。
(中には、こんな花も)
この花に茎には
(こんなものが)
ネット社会で恵まれた「ありがたいご縁」によってはるばるドイツの地からやってきた「芽キャベツ」の花です。
今、こうして、「春」と言う季節を迎え、畑は「冬の主役たち」による百花繚乱の美しい「春絵巻」が繰り広げられているのであります。
でも、しかし、それは、ひとつの季節の終わりを告げる知らせでもあるのです。
こうして、野菜たちの花が咲くということは、その野菜が「旬」を終えたことの「証し」でもあります。
「旬を終える」すなわち野菜たちは「その役目を終えた」ことを僕たちに告げているのです。
「役目を終えること」
それは、その野菜たちが、「退場」をする時期を迎えたということに他なりません。
役目を終えた野菜たちは、その場所を次の季節の主役たちに明け渡さなければなりません。
この土曜日、ついさっきまで、色とりどりに咲き誇っていた「この場所」は、僕の手によって
(こういう姿になりました)
今しがたまで咲き誇っていた花たちは、すべて僕の手によって刈り取られ、そして、ハッピーカム号によって耕されました。
とても残酷なことをしているに違いありません。
でも、この場所は、新しい季節の主役たちの「命を育む場所」として絶対に「必要な場所」なのであります。
「作物を育てると言うことは、大自然から命を戴くことなのだ」
新しい季節の「主役交代」の時期を迎える度に、僕は、その事を心に期すのであります。
「命を戴くこと」の意味の深さと、作物たちの命の尊厳に心から感謝し、大自然の恵みを頂戴することの「ありがたさ」を決して忘れてはならない。
僕が、我が畑で学んだ大切なことのひとつです。