昨日(3月12日)、ご当地名古屋においては、「2006年名古屋国際女子マラソン」が開催され、スタート・ゴール地点となったの瑞穂陸上競技場のスタンドをはじめ、コース沿道にて多くのマラソンファンが選手の皆さんに熱い声援を送りました。


結果は、37歳の弘山 晴美選手(資生堂所属)が、先を行く渋井 陽子選手(三井住友海上所属)を残り僅か1kmのところでかわし、2時間23分26秒のタイムで、優勝いたしました。

彼女の37歳という年齢は、東京、大阪、名古屋の国内主要女子マラソンでは日本選手の最年長となります。

心からおめでとうの言葉を送りたいと思います。



ところで、今朝、出勤途中の車の中でFMラジオのパーソナリティの口から、マラソンにまつわるひとつのエピソードが伝えられました。


それを聞いて思わず「へぇ~」の連発をした僕。


早速、ランチタイムを使って調べてみました。


今日は、そんなお話しのご紹介です。





******************************



時を遡る事1912年。北欧はスウェーデンの首都ストックホルム。

この地でストックホルムオリンピックが開催されました。

このオリンピックに一人の日本人ランナーが出場いたします。


彼の名は、金栗 四三(かなぐり しそう)。

翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225キロ)を27分も縮める大記録を出し、短距離の三島弥彦と共に日本人初オリンピック選手第1号となったのでした。


スタートした金栗にアクシデントが襲います。

何と彼は、レース途中で体調を崩し意識を失って倒れしまったのです。 そして彼は、近くの農家に倒れていたところを助けられることとなります。

介抱されていた金栗選手が、その農家で目を覚ましたのは、既に競技も終わった翌日の朝

しかし、このことがオリンピック委員会に伝わることはなく、金栗選手は記録上「競技中に失踪し、行方不明」となったのでありました。



そのまま時は流れ流れて、1967年。

ストックホルム市がオリンピック開催55周年を記念する式典を開催することになり、オリンピック委員会が当時の記録を調べることに・・・・・・。

そこで見つけたのが、金栗選手が「行方不明」。


即ち、彼は、記録上


完走も棄権もしていない状態である。


という驚くべき事実だったのです。


そこでオリンピック委員会は、日本にて健在であった金栗選手に対し、改めて「棄権するか完走する」よう要請したのでありました。

要請を受けた金栗はストックホルムへ赴き当時のコース(実際には競技場内の100メートル、残りの距離を消化した扱い)を走って晴れてゴールを果したのでありました。


その公式記録、なんと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・





54年8ヶ月6日5時間32分20秒3!!





ここにひとつの偉大な記録が打ちたてられたのでありました。


いやはや、ビックリの大記録。


「フルマラソンってやっぱり長いのねぇ~~」というお話しの一席でした。




付記:

尚、この金栗 四三(かなぐり しそう)氏は、その後、日本陸上競技長距離界に多大な貢献をなされ、「日本のマラソンの父」として、陸上競技界のみならずスポーツ界全般から熱い尊敬をされております。

いまや日本のお正月の一代イベントとなった「箱根駅伝」においても氏の功績を称え、2004年より最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されております。

氏の名誉の為、ここにあえて付記いたしておきたいと存じます。


記事参考リンク先URLは以下のとおり


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A9%E3%82%BD%E3%83%B3


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A0%97%E5%9B%9B%E4%B8%89