さて、前編で「だるまさん人形」に、達磨大師様というモデルがいることを書きました。
では、なんで「だるまさん人形」が、出来たのでしょうか。
後編では、このあたりを探って見る事にいたしましょう。
**** お話の舞台は中国から日本へ移ります ****
江戸時代のはじめ、現在の群馬県に観音様をお祀りした祠(ほこら)があったそうです。
その地で、大洪水が起こり、田畑をすべて圧し流された跡から、不思議な古木が姿を現しました。
よい香りのするその古木を村人たちは「霊木」として、その観音堂に奉納いたしました。
数年を経た、ある日、一人の老僧が、村を訪ねてまいります。
老僧は、ある日夢枕に立った達磨大師から、この地ある木で「達磨坐像」を彫るように告げられたのだそうです。
早速、村人は、この古木の元に老僧を案内し、老僧は四尺ほどの達磨坐像を彫り上げたのでした。
この話は近郷に知れ渡り、誰とはなくこの場所を「達磨大師出現の地」として「少林山」と呼ぶようになったのでした。
さらに時代は進み、この話を聞き及んだ時の藩主(前橋藩藩主 酒井公)は、この地に寺を建立することを発願し、元禄の頃お寺が建立されたのでした(この出来事には、かの水戸黄門こと水戸光圀候が関わっておりますが、ここではご紹介まで)
さて、こうして建立されたのが「少林山達磨寺」であります。
さて、さらに時代は下り、この地は、大飢饉に襲われます。(今日、日本史の教科書に書かれている「天明の大飢饉」です)
この困窮から農民を救うため、時の達磨寺住職によって、達磨大師の図を手本にして農民らに「張子の人形」を作らせ、これを毎年正月の「七草の大祭」に「達磨大師の故事に因んだ縁起物」として売らせたのが、この「だるま人形」の始まりなのです。
この縁起物は、やがて、全国にひろまり、今日では、日本時の誰もが知っているおなじみのものとなりました。
この習わしは、現在では、「高崎のだるま市」として、正月七草に合わせて毎年、1月6・7両日に行われ、全国から多くの人がこの地を訪れ、「だるま人形」買い求める、日本の正月の一大風物詩となっております。
今日、1月6日は、まさに、この日に当たっており、わが東海地方とは、あまり縁はないものの、いささか「だるまさん」に関してお題をいただいたことから、記事にしてみた次第です。
尚、群馬県高崎市「少林山達磨寺」のホームページと達磨大師に関する記述の参考としたホームページ
を以下にリンクしておきます。
***** 追 記 ******
ところで、
「何故、だるま人形には、まず片目を入れて、満願成就の後、もう一方の目を入れるのか」
ということですが、「少林山達磨寺」の解説によれば、最初は、だるま人形には、両目が開いていたのだそうです。
後になって、かの地の地場産業である「養蚕農家」の人たちが蚕の習性である「繭になるまでに4回脱皮をする」という事と達磨様の故事である「七転び八起き」にあやかって、無事脱皮を繰り返してよい繭が出来上る様にとの願いを込めて始まったのだそうです。