・これから、僕の書きたいこと


 人は、社会生活を営んでいくにあたって、「人とのコミュニケーション」を避けて通ることが出来ません。

この事は、いまさら言うまでも無く、誰もが認識している、「至極当たり前の事」として、誰もが、捉えていることでしょう。

では、「コミュニケーション」は「何のため」に取る必要があるのでしょうか。

実は、この答えは、一概には出せないと僕は、考えます。

なぜなら、そこには、必ず目的があるからです。「個々の事情」と置き換えても良いかもしれません。

時に「利害」であったり、また「愛情・友情」であったり、あるいは「信仰」である場合もあるでしょう。

「コミュニケーションの目的」が多様であるという事は、それを円滑に「調和」させていく「何か」が、無ければなりません。


「その何か」の中で、まず「人を認める」ということが、大事な要素と思います。

では、どうしたら人を認めることが「出来る」のか。人を認めることが「出来るようになる」のか。

つまり、「多様性認知のできる人の持つべき本質とは?」について、これから、僕の考えを述べてみたいと思います。

しかし、あくまでも「序論」です。「本論」が確立できる事にたどり着くには、まだまだ道半ばであります。山ほど勉強せねばなりません。


そんな僕の、拙い考えを伝えるために、ひとつの「お話し」を作ってみることにいたしました。

主人公は、「やじろべえ」。そう、皆さんよくご存知のあれです。


どこまで、考えをお伝えできるか、分かりません。当たり前すぎてしまうかもしれません。

ただ、今の自分が「人としてこうありたい」という自分自身の「心構え」としていることに違いは無いのであります。

では、本論である「たとえ話」を書き進めてまいりたいと存じます。





「やじろべえのヒトリゴト」へつづく