憂国忌50年祭に参加した。

 

義挙の月日どおりに行う方(集まりやすい手前の祝日に行う都道府県が多いと思う)に,神事が19時からというので出席できた。

 

25日は平日が多いので,部署にもよるが公務員か,自営,リタイア組くらいしかなかなか参加はできない。

 

たまに警察官が混じるがこれは公安で,「私も個人では右派なんです」と言いつつ名刺交換し,あとで「面割り」して報告を上げる立派な?右翼担当者の任務を果たしに来ているだけである。

 

博多筥崎宮で義挙直後から営々と慰霊祭を継続している福岡県では,大きな節目に向かって広く意見を集め,時間をかけて周到な準備をして,

 

若い世代中心の創作劇を武漢肺炎に配慮しつつ行ったのだが,鹿児島県の義挙当日に行う祭りは,神事と奉納演武,直会のみの簡素なものだった。

 

主催者団体の会長が述べる「我々は義挙の精神を引き継いで今後もやっていきたいと思います」という型どおりの挨拶をボンヤリ聞きながら,私は,故 中川昭一大臣の講演を聴いた博多の憂国忌を思い出していた。

 

講演中に彼が苦悩の表情を浮かべて絞り出すように言った「私は今でも,父がなぜ自ら命を絶ったのか全くわからないのです」という言葉と,

 

休憩中にロビーで輪になって煙草を吸った際の,柔和で尊大さのカケラもない折り目正しさと,静かではあっても力強い「国を愛(おも)う熱誠」に溢れた清しい決意の披歴が,

 

陳腐ながら,走馬灯のように眼前に甦る自分が微力ながら同志の驥尾に付して繰り返してきた社会運動での日々と共に胸を抉る気がした。

 

豚共の卑劣極まりない手口で彼が倒された時の悔しさは今も胸にある。

 

この人が総理総裁になれば,わが国は独立国の必須要件である正当性ある戦争を断固として実行できる国になれるかもしれない。そして,武威を背景にした強烈な要求を北朝鮮に突き付け,拉致されたままの同胞を全員奪還できるかもしれない。

 

占領され,侵略されている領土を取り戻すための第一歩を印せるかもしれない。事実上の植民地状態への拒絶を進め,アメリカと対等な立場の構築を始められるかもしれない。

 

そして何よりも,軍人軍属老若男女,朝鮮半島,台湾等出身者を問わず,悲しき命を日本に捧げてくださった死者達との約束,すなわち靖国神社への首相公式参拝が堂々と成り,それが陛下の御親拝を仰ぐための露払いとなるに違いない。

 

満腔の好意をもって信頼し,その重責へ真心からの敬意を払い,対外的に自慢できる総理総裁が進めようとする政策に身銭を切って協力し,

 

時には,祖国と自分に強烈な一体感を抱く指導者を得ている幸いに,一国民として真心からの幸福と感謝を感じながら酒を酌む,

 

周囲の青少年に対して,総理総裁が双肩に担っているとてつもない重責に思いを致しながら共に祖国へ尽くすべく決意を固めるように促せる誇りある日々が訪れるかもしれない。

 

そう思った。

 

倒れた彼が握りしめていた独立自尊の旗は,政治家に限ってはいまだに誰にも拾い上げられることがない。

 

アメリカを牛耳る者どもの手先として,わが国を管理する機関としての植民地総督府に意気地なく成り下がったままの政府と,米軍のアウジリアス(ローマ帝国属領補助部隊)に甘んじる自衛隊があるのみ。

 

「かくまでに醜き国となりたれば 捧げし人のただに惜しまる」

(とある戦争未亡人が詠まれた歌)

 

義挙以来,つとに指摘されてきたことではあるが,檄文にある国のありようへの予言は年々歳々リアルさを増してくる一方だ。

 

警察予備隊発足当初から定年退官まで幹部自衛官だった父は「彼らは獅子身中の虫だ!」と事件当時言ったが,

 

私はやはりあの時,クーデターを引き起こして国会議事堂を瓦礫の山にするべきだった,破邪の剣を抜いて「敗者の戦後への拒絶」を征服者アメリカを含め内外に示したかった と切に思う。

 

世界を席巻するグローバリズムへ抵抗する日本での全国組織作りはようやく緒に就いたばかりだが,何を気取らずとも,たとえ去勢された総督府が勝手に降伏しても,

 

そこから始まる,手段を選ばぬ残虐極まりない「戦闘」を継続する意思と能力を持った大丈夫達が津々浦々で手を結び鍛えあい周到な準備に着手したからには,

 

売国奴達が恥知らずにも企んでは祖国に災厄ばかりをもたらしている「おもてなし」とは全く違った形の「熱烈接待」で目にモノ見せてくれよう。

 

民族本来の優しさと融和の心に狡猾につけこんでは日本人の暮らしをいいように食い物にしている事への報復が,工作を仕掛けた者と,もはや同胞の名に値しない進んで敵の犬となっている者へ激しく及ぶ未来が来る。

 

誓いは,死者達への約束と古く美しい祖国の名において必ず果たされる。