あれは韓国や中国への修学旅行が流行り始めていた頃だった。
やれ朝鮮植民地化の蛮行だの,お定まりの南京大虐殺だのを,旅行前にさんざんNHKの反日番組を生徒に見せては洗脳した挙句に現地へ連れて行っては,
感想文に「日本に生まれたくなかった」だの「自分にこんな汚い血が流れているとは知らなかった」だのと書かせて,日教組と,それに付和雷同して「摩擦を避ける」「抗議すべき時に沈黙する卑怯者」の教師集団が共にバンザイしていた醜悪な時代。
県立高校の事務室で働いていた私は,どういった流れで旅行請負業者が決まるかを見聞きすることがあったが,業者さんは商売だから,当然ながら学校現場の意向がどうで,下に媚び,下に飼われることが多い校長の実態も知り尽くしている場合が多かった。
私は,文字どおり「やむにやまれず」こういった,一次資料による立証もないままで日本の名誉を汚すナチスのような洗脳が血税で行われていることに怒りを覚え,新聞の時事評論欄に実名で告発しようと思い定めた。
そんな頃,日本旅行という会社の営業マンとよく言葉を交わすようになった。彼は,公務員としては,黙っておけばいいのに黙ってはいられない,つまりは三匹のサルにはなれない私が,抑えた表現ではあっても堪え切れずに話す「立場を利用した売国行為への怒り」を,穏やかに,如才なく,自らの職責を損なうことのない言葉を選びながら,辛抱強く聞いては,控えめに答えてくれるのが常だった。
暑い盛り,校舎の廊下で行き会った際に,彼に先を譲って歩いていると,サマースーツをキチンと着こなした首筋に玉の汗がいっぱい光っていた。
ノータイの半袖シャツという自分の軽装に思わず気が引けて「こんなに暑い中をスーツでいつもたいへんですね」と声をかけると,「いえ,自分達はこれが制服ですから」と彼は微笑んだ。
おしなべて,民業が一人で一日で済ませる仕事を三人でゆっくり数日間はかけ,それでいて,給料は三倍以上を取って平気という,ぬるま湯の極致のような世界に生きていた私は言葉もなく頷くしかなかった。
服装もだけど,この人はいったい私の何倍働いているのだろうかと,血税で一切を賄われている身としては申し訳なかったのだ。
無念なことに,今は全く彼には支障がなくなったから記すが,支店長と共に校長室を訪問した時など,いったん職員室の担当者へと引き合わされ,再び校長室へ戻った際に,つい先ほど差し出した名刺が,くずかごに投げ捨てられているのを目撃したこともあると,軽蔑と憐憫をかみ殺したような表情を浮かべて話してくれたこともあった。
鹿児島まで新幹線が開通する前に,玄関口の改札で奥さんと二人連れの彼と出くわしたことがある。
丁重に挨拶すると,いつも添乗ばかりで忙しいから本当に久しぶりの夫婦の外出ですと,人としての誠意を自然に感じさせる微笑みと口調で彼は話してくれた。
後日,県を依願退職し,一般課長職公募で採用になった阿久根市という自治体での業務上で日本旅行を訪問した際に,対応してくれた支店長の口から彼がもう長く難病と闘っていることを聞き,
それからほどなくして,力尽きて世に棲む日々を終えたことを知った。
最後の最後まで,新療法の確立によってカムバックするという希望を捨てなかったという。
無言のうちに,懸命に働くことの美しさと厳しさと哀しさを,知らず知らずに,何の成果を上げなくとも田舎では結構な額の給与と賞与が振り込まれることに慣れ切っていた私に教えてくれた彼。
もちろん勝手な思い込みだが,仕事を離れたところでもしも話を聞いてくれたなら,私が抱いている故郷と,その連なりである祖国へのひたすらな愛を,彼は理解し共鳴してくれただろうと思うことがある。
神仏に愛される魂は汚濁にまみれた現世での修業期間が短いとはいえ,旅先や,新幹線が着く鹿児島中央駅のホーム,そして空港で,団体旅行に付く添乗員さんの姿を見かけると,世の不条理が胸に迫り,どうしてあなたが先に逝ったんですかと呟かずにはいられない。
そちらへ行ったら,敗け続けでも逃げなかった私の話も聞いてくださいね。