私は6月の生まれですので、先日、誕生日を迎えました。もう祝福という歳でもないのですが、皆さんに祝っていただきました。感謝、感謝です。

 

私の誕生日を迎えるといつも思い出すことがあります。子供のころから、私が誕生日を迎えるごとに、両親をはじめ、周りの大人たちから聞かされてきた、私の誕生にまつわる話です。

 

梅雨時だとは言っても、その年はとりわけ雨が多い年だったらしく、1週間以上もずっと大雨が降り続いたそうです。そうしてついに、筑紫次郎と呼ばれる九州一の大河、筑後川の上流で川の堤防が決壊してしまいました。しかも決壊した堤防は、わが家がある側の堤防でした。わが家は、下流に近い平野の中にあったので、筑後川の上流で堤防が決壊すれば、いずれ必ず洪水に見舞われるという場所です。

 

わが家では、だいぶ慌てたようです。洪水が来る前にと、下に置かれていた荷物をできるだけ高いところに移しました。とくに、穀物などの食料は、床上浸水にそなえて、畳を積み上げてその上に置いたそうです。ところが、全員初めての経験だったこともあり、見通しが甘かったようで、たちまちに床上浸水が始まり、最終的には床から1メートルほどのところまで水に浸かってしまいました。畳の上に積み上げていた米俵は、水の浮力で畳が浮き上がり、転覆してしまったそうです。家財道具も後始末が大変だったと話していました。

 

さて、問題は私の出生にまつわるお話です。私は、家で、24日の午後11時ごろに、村内にいた一人いた産婆さんの手によって取り上げていただきました。そして、洪水は、その2日後の26日にわが家を襲ったのです。私の母親は、お産の直後でもあり逃げ場を失いました。それで、しかたなく、気力を振り絞り、生まれたばかりの私を抱えて屋根裏部屋に避難したそうです。家族の支えがあったとはいえ、私がよりによってそんな日に生まれ出たばっかりに、母親は、大変な目にあってしまいました。

 

私を取り上げてくださった産婆さんは、泥水が流れ、動物の死体が流れる洪水の中でも、川船に乗って往診に来てくれたそうです。後日、私が少し大きくなって、その産婆さんに出会ったとき、母親が、「あの時に生まれた子はこの子です」といって私を紹介しました。すると、婆さんは、目を細めて私を見ながら、「ああ、そうだったね」といって、頭を撫でてくださいました。

 

母方の実家からは、叔父さんが、洪水の安否確認もかねて、お祝いにきてくださったのですが、わが家の近くの堤防まで来たところで、足止めになりました。叔父さんは、しかたなく服を脱ぎ、祝いの品を頭に括り付けて、堤防からわが家まで100メートルほども、泥水の中を泳いできてくれたそうです。私が大きくなって母の実家に行くと、叔父さんは、「あの時は、もう大変だったよ」と口癖のように仰いました。

 

今ではもう、私を取り上げてくださった産婆さんも、泳いで祝いに来てくださった叔父さんも、私を生んでくれた両親も、すべて彼岸に渡ってしまわれました。誕生日のたびに聞いていた、私の誕生にまつわる話も、いまは誰もしてくれる人がいません。なんとも寂しいことです。