(6)ローマ時代と追放

セレウコス朝シリアの次にカナーンの地域に影響力を及ぼすのはローマ帝国です。ユダヤの人々は、メソポタミアやエジプトからの脅威にさらされるたびに、ローマを頼りにしてきました。しかし、ついに紀元前63年、カナーンのユダヤの人々は、ハスモン家を首長としたまま、ローマの属国として組み入れられることになります。そして、ローマに対する朝貢の義務が課せられます。朝貢というのは、貢物をもって挨拶に出向くということです。

 

 <ヘロデ王朝の時代>

紀元前37年になると、ヘロデがローマの援助を得て、ハスモン家を滅ぼし、王位に就きます。ヘロデはユダヤの血を引いた人物ではありません。したがって、彼は大祭司に任命されることはありません。ヘロデは、ローマに忠実な統治者でした。表面的には、ユダヤの文化や宗教に敬意を払うそぶりは見せましたが、内実はヘロニズム主義者でした。そのため、とくに、ファリサイ派の人々は彼を正当な統治者とは認めず、常に対立的でした。

 

ヘロデ王の時代は、ローマでは共和制から王制への転換期にあたります。すなわり、ローマではオクタビアヌスとアントニウスの政権争いが始まります。ヘロデは最初、アントニウスを支持しますが、アントニウスの愛人クレオパトラが、ヘロデとアントニウスの関係を悪化させるために、カナーンの地を奪い取ろうとします。そのため、ヘロデはアントニウスと距離を置くことになりますが、それが幸いします。

 

その後の戦いで、オクタビアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍を破って、紀元前27年に、ローマの初代皇帝アウグストゥスとなったとき、ヘロデはアウグストゥスに取り入ることができました。ヘロデは、ローマ皇帝によってカナーンの統治者として認められることになったのです。

 

ヘロデ王は、民衆には嫌われる反面、統治者としては有能で、領土を拡大するなど、国家に大きな繁栄をもたらしました。とくに重要なのは、ヘロデが、エルサレムの神殿を大改修して、質素な建物であったものを、敷地を拡げて豪華な神殿に作り変えたことです。彼が行った神殿改修は、彼の反対者でさえ歓迎したほどです。現在の、エルサレムにある「嘆きの壁」はユダヤ教徒の第一の祈りの場ですが、それは、ヘロデによって改修された神殿の一部です。

 

ヘロデ王は、統治者としては有能な面も持っていましたが、ユダヤの人々の信仰に対しては無理解でした。彼は、自身がユダヤ教徒でないにも関わらず、伝統的な長老会議を私物化し、祭司の家系であるハスモン家を排除し、エルサレムの神殿の運営を自身が掌握しようとしました。それで、表面的には親ユダヤ人として振舞っても、ユダヤの人々はヘロデを嫌っていました。

 

くわえて、ヘロデは、病的なほど猜疑心が強い性格で、とくに自身の地位を脅かす可能性のあるハスモン家の人々を多数殺害しました。彼の猜疑心は、家族にも向けられ、彼の10人の妻と15人の子供たちのうち、ハスモン家の出身であった最初の妻マリアムネとその3人の息子まで、次々に処刑しました。ヘロデが自身の息子を処刑していたころに、イエス・キリストが誕生することになるのです。

 

ヘロデは、紀元前4年に長男を死刑にして、同年のうちに亡くなります。領地は彼の3人の息子によって3分割されます。それらの後継者の一人が、妻の依頼によって、イエス・キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネを殺害してしまいます。