<シリアによる支配>

カナーンのユダヤ人社会は、紀元前333年までペルシャ帝国の支配を受けました。その後、紀元前301年から、エジプトに興ったプトレマイオス朝エジプトによる支配が始まります。プトレマイオス朝は、ユダヤ人社会への干渉を避け、ユダヤの神官と長老たちによる神政政治を認めました。それで、ユダヤ人社会はユダヤ教の教えに基づいた生活を送ることができましたし、安定した状況を保つことができました。

 

しかし、紀元前198年から、セレウコス朝シリアによるユダヤ人社会の支配が始まり、再び、ユダヤ人たちの苦難の日々が始まります。初めのころは、ユダヤ人の自治が認められていたのですが、次第に状況が変化します。3代目王の時代になると、ローマ帝国が勢力をセレウコス朝の領土にまで及ぼしてきたからです。セレウコス朝は、ローマ軍に対抗するために領内から軍資金を調達する必要が出てきます。そのための手っ取り早い方法として、領内の神殿や寺院に納められている財宝に手を付けてしまいます。とくに、ユダヤ教の神殿は、セレウコス朝の支配者にとっては、調度品や装飾品に至るまで、目を見張る財宝の在処と映ったに違いありません。

 

また、セレウコス朝は、ローマ軍の侵略に対抗するために、領内を効率的に管理する必要が出てきて、画一化をはかりました。そして、領内画一化の方向として、ヘレニズム文化による画一化を目指すことになります。それは、言語、生活習慣、そして宗教文化に至るまで、すべてをギリシャ風に統一することを意味しました。

 

このようなセレウコス朝の政策に対して、ユダヤ人社会の対応は二つに分かれた。上流階級の人々は、

祭司も含めて、当時、上位文化であったヘレニズム文化を日常生活のレベルまで受け入れていました。上流階級の人々のなかには、ヘブライ風の名前とギリシャ風の名前の二つを持っている者もいたほどです。しかも、ユダヤ人社会の中から、ユダヤ教をヘレニズム化しようという提案が出されるほど、ヘレニズム文化は浸透していたのです。

 

祭司の中には、国王に賄賂を贈って、ギリシャ風に統一することを条件に、自分を大祭司に任命するよう願い出て実現した者もいました。しかも、そのような動向に反対した正統な大司教は暗殺される始末です。紀元前169年、セレウコス朝の役人が、ユダヤ教の神殿から財宝を持ち去る際には、大司教が手助けまでしたといわれています。

 

ここまでくると、一般のユダヤ人たちは、セレウコス朝の統治に対して反発を募らせました。

しかし、それにも関わらず、さらにギリシャ化が進められました。トーラーが廃止され、割礼や安息日や祭礼など、ユダヤ人独自の文化が禁止されました。そして、政府の方針に反抗的でないことのしるしとして、ユダヤ教で固く禁止されている豚肉を食べることが強制されました。