(3)南北王国時代

ソロモン王は、紀元前928年に亡くなりますが、彼の死後すぐに、王国は北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。北の部族がダビデの家系の王による支配を拒否したのです。その結果、北のイスラエル王国に10部族、南のユダ王国に2部族が属するようになりました。その後、両王国共に、内乱や外敵による侵入が続き、領土も失い、次第に衰退していくことになります。

 

両国は、宗教の面においても不安定化していきます。

すなわち、北のイスラエル王国は、政略結婚によって国王の息子の嫁として隣国からイゼベルという女性が入ってきました。イゼベルは、ヤハウェの信仰を排除し、自身の宗教を広めようとしたことから、ユダヤの預言者たちの怒りを買うことになりました。

また、南のユダ王国では、王の息子の嫁として、イスラエル王の娘アタルヤが入ってきました。アタルヤは、国王の夫が亡くなると、自ら実権を握り、反対する親族を次々に処刑しました。そして、異教的なバール神信仰を始めました。

このような出来事によって、両国ともに、ヤハウェ神に対する一神教が一時的に揺らぐことになりました。いずれの場合も、最終的には異教的な動向は排除されますが、中近東の多神教的世界の中にあって、一神教を維持するには強固な信念が必要だったのです。

 

<アッシリアによる侵略>

紀元前722年、北のイスラエル王国がメソポタミアから興ったアッシリアによって滅ぼされます。アッシリアは、征服した地域に対して、民族入れ替え政策をとっていたので、イスラエル王国の住民は、メソポタミアの北部地域に移住させられ、代わってシリアやバビロニアからの移住民が入ってきました。イスラエル王国には、ユダヤの12部族のうちの10部族が暮らしていたのでが、この民族入れ替え政策によって、10部族が歴史から消ええしまいました。

 

<宗教改革運動>

イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされるのを目の当たりにしたユダ王国のヒゼキア王は、ただちに宗教改革に乗り出します。ユダヤ教の宗教的純粋性を高めることによって、ユダ族を中心とした精神的統一をはかるための運動を始めたのです。そのために、まず、各地方に置かれていた聖所を取り壊してエルサレムの神殿に宗教的権威を集中しました。また、いつの間にか入り込んでくる多神教的な要素を排除することに務めました。とくに、中近東で古来、広く信仰されていたバール神の神像がユダヤ教の神殿に置かれたりすることもあったようです。