4.若宮養水井堰をめぐる取り決め

そこで、1662年6月、福岡藩と秋月藩が仲立ちとなって、取り決めが行われました。その内容は、「明六つから暮六つ迄山家村、暮六つから明六つ迄中牟田村が取水する」というものでした。つまり、昼間は山家村が取水し、夜間は中牟田が取水するという取り決めです。これで、ひとまず両村の水問題は解決したかに思われました。

 

 

5.水争い

ところが、そもそも水の絶対量が足りないわけですから、ひとたび炎天が続いたりすると、取り決めが守られないということがしばしば生じるようになります。17世紀の後半期になると、中牟田村には水が一滴の水も流れないという事態も生じたようです。そのたびに、両村の間で、取り決めの再確認なども行ったりするのですが、干ばつになるとなかなか守られずに水争いが絶えなかったということです。なにせ、井堰は山家村域にあるので、中牟田村はどうしても不利な立場になってしまうのです。

 

 

6.若宮養水井堰をめぐる現在

いまでは水争いこそなくなったのですが、山家村と中牟田村の水をめぐる関係は、その後もずっと続き、なんと現在にまで引き継いでいるということです。中牟田在住の当会の会員の話によると、10年ほど前に中牟田村の水田耕作者に聞いたところ、毎年、取水の時期になると、中牟田村の耕作者たちが、お酒を持って、山家村の耕作者のところに挨拶に出かける、という慣習が今もなお続いているということなのです。

 

若宮養水井堰の歴史は、14世紀の前半期、中牟田村の創立とともに始まり、幾多の歴史をくぐりながら、700年後の現在にまで続いていますし、これからも続いていくのでしょう。若宮養水井堰は、過去の史跡ではなく、いまも現役なのです。