1.「若宮養水井堰」の見学

地域文化史跡探訪の会で、「若宮養水井堰」を見学に出かけました。「養水」は、本来は「用水」と記すところでしょうが、それをあえて「養水」と表記したところに、水に対する強い思いが込められているように感じます。

ここは、水田と水との切っても切れない関係、そして水をめぐる地域住民の協力と葛藤の、今日にまで続く長い歴史が刻み込まれた場所です。

日本は、古来、稲穂の国、つまり水田の国です。そして、水田の歴史は、また、水をめぐる歴史でもあります。若宮養水井堰は、わが国の水をめぐる歴史の一コマを鮮やかに映し出してくれる格好の資料です。

 

 

2.若宮養水井堰の創設

若宮養水井堰は、筑紫野市山家を流れている山家川に掛かっている若宮橋の上流100メートルのところに設けられている井堰です。

 

まず、この井堰が造られた経緯から話を始めましょう。

時は建武年間(1334~1337)といいますから、14世紀前半期です。中央では鎌倉幕府が滅亡し、室町幕府が興るまでの数年間、という時期です。税田式部少輔種吉という人が、中牟田村(現在の朝倉郡筑前町中牟田)を開き、新田を開拓しました。その際、水を求めて測量を重ねた結果、隣村の御笠郡山家村(現在の筑紫野市山家)を流れている若宮川(現在の山家川)の川筋に適地を見出し、そこに井堰を築きました。この井堰が、現在の「若宮養水井堰」です。

 

その井堰で若宮川の水を分けて、そこから1500メートルほども用水路を築いて中牟田村の新田まで水を導くことができました。当時はまだ、若宮川の水は十分豊富で、分水しても問題はなかったのでしょう。

 

 

 

3.若宮養水井堰のその後の歴史

それから150年ほどたった15世紀の末頃、さらに新田開発が行われ、それに伴って、井堰と用水路の補修が行われました。

16世紀後半期、豊臣秀吉が天下を取り、朝鮮出兵を行う際の食糧確保のために、中牟田村に米蔵を設けました。その時期は、水は中牟田村に優先的に割り振られたようです。

 

江戸時代に入り、黒田長政が国主として入ってくると、新田開発がさらに進められました。17世紀の前半期の50年ほどの間に膨大な新田開発が行われたようです。そのために、若宮川の水では足りないというほどになってきました。そのために、古市彦太夫などの努力によって、中牟田村への用水路を深くして、水の流れを良くするといった工夫もなされました。

 

やがて、全国に街道が開通し、その一環として長崎街道が開通します。そして、長崎街道は山家村を通ることになります。それに伴って、山家村は「山家の宿」として賑わいを見せるようになります。山家村では食糧を確保するために、さらに新田開発がすすめられました。ところが、水田が増えすぎた結果、水が不足するようになり、山家村と中牟田村の間で、毎年、水争いが絶えないという事態になってしまいました。