1.八十八夜

今年は、5月1日が八十八夜、すなわち立春から数えて88日目にあたります。茶摘みの歌詞に表れているように、八十八夜になると、野山は若葉が勢いよく、艶やかに生えそろい、春は真っ盛りを迎えます。

このころになると、霜が降りるような夜の冷え込みもなくなり、日中は気温が上昇して安定するようになり、春蒔きの農事に適した自然環境が整ってきます。八十八夜は、昔から農業関係者にとっては重要な日で、穀物や野菜の作付けを本格的に始める目安にされてきました。

 

「霜なくて曇る八十八夜かな」(正岡子規)

「霜害を恐れ八十八夜待つ」(高浜虚子)

 

しかし、今日では、機械化が進み、兼業農家が増えていることもあり、自然の動きに人間が合わせるような一昔前の長閑な雰囲気はなくなっています。本業の空いた時間に、大型機械を使って行う今の農作業を見ていると、自然を人間の営みのなかに組み込もうとしているように見えます。

 

 

2.春との別れ

一方、八十八夜が訪れると、もうすぐ春が終わり、暦の上では季節は夏に移行するという時期です。したがって、今の時期は、過行く春に別れを告げる時節でもあります。春を待ちわび、春の到来を喜び、春に対する思い入れが強いほど、過行く春が惜しまれるのではないでしょうか。私も、今年は春に対する思い入れが強かったので、春が過ぎ去るのに寂しさを感じます。

 

春との別れは、昔から切ないものであったらしく、多くの歌人・俳人が、春との別れを惜しむ歌や俳句を詠んでいます。

 

「待てといふに止らぬものと知りながら強いてぞ惜しき春の別れは」(詠人知らず)

春を擬人化して、「おい、ちょっと待てよ、そう急がなかてもいいだろう」と言っても、行く春が待ってくれないことは分かっているけれども、春との別れはなんとも惜しいものだというわけです。

 

「花は根に鳥は古巣に帰るなり春の泊を知る人ぞなき」(崇徳院)

花は根に帰り、鳥は古巣に帰るけれども、春はいったいどこに泊っているのか、誰も知らない、知っていれば尋ねてみたいものだとでもいうのでしょうか。それほど春との別れは惜しいというのでしょう。

 

「行く春や鳥鳴き魚の目は涙」(芭蕉)

春が行ってしまうので、鳥は悲しみの鳴き声を上げ、魚は目に涙をいっぱい貯めて、春との別れを惜しんでいるというのです。春との別れは、人間だけでなく、鳥や魚まで悲しませてしまうというわけです。

 

 

「行く春の町や傘売りすだれ売り」(一茶)

春が過ぎ去っていく町では、次に訪れる夏のために、商う品も傘やすだれに代わっている。季節に順応して商品も変わっていくというわけです。一茶らしい独特の視線ですね。

 

「行く春や海を見てゐる鴉(からす)の子」(諸九尼)

間もなく巣立とうとするカラスの子でしょうか、遠く海を眺めながら、春がゆっくりと過ぎ去り、やがて夏がやってくる風景をしっかり受け止めているというのでしょう。

 

「窓あけて見ゆる限りの春惜しむ」(高田蝶衣)

過ぎ去ろうとしている春を、開け放された窓から身体いっぱいに感じ取りながら、春との別れを惜しむというのでしょう。

 

以上、過行く春を惜しむ私の気持ちを、その道の達人たちが詠んだ歌や俳句に代弁していただきました。