1.「子規」という筆名の由来

正岡子規は、わずか35年の短い人生でしたが、それまでの伝統的な和歌に対して、近代的な短歌を提唱し、俳句においても近代的改革を目指しました。

 

子規は、若いころは野球を日本に普及させるのに熱中していたのですが、若くして結核を患い、野球は断念せざるを得なくなります。そして、ときどき喀血をするようになったことから、「鳴いて血を吐く」というホトトギスにちなんで、ホトトギスを意味する「子規」を名乗るようになります。「子規」の筆名を得たことは、彼にとって大きな喜びだったようです。

 

彼は、東京帝国大学で夏目漱石と出会いますが、まもなく大学を中退し、新聞記者になったりしながら、和歌や俳句の改革運動を続け、後進の指導にもあたります。

やがて、結核菌が脊髄に入って、脊椎カリエスを患い、30歳になる前から、ほぼ寝たきりの状態になってしまいます。それでもなお、創作意欲は衰えることなく、激しい痛みの中で、俳句も短歌も詠み、新聞への投稿も続けますし、後進の指導も熱心に続けました。痛みが激しくなってからは、モルヒネを使用してまで、創作活動を続けたようです。

 

 

2.亡くなる前年の子規

亡くなる前年(明治34年)の正月には、「日本」紙上に発表された『墨汁一滴』のなかに、次のような文章を残しています。

 

 人はまさに余の自ら好んで苦しむを笑はんとす。余は切にこの苦の永く続かんことを望むなり。明年一月余はなほこの苦を受け得るや否やを知らず。今年今月今日依然筆を執りてまた諸君に紙上に見ゆることを得るは実に幸なり。

(人は、私が自分から好き好んで苦しんでいるのを見て笑うかもしれない。私は、この苦しみがいつまでも続くことを切に願う。来年の1月も、この苦しみを受けることができるかどうか分からない。まさに今、執筆を通して、紙上で皆さんにお会いできるのは実に喜ばしいことである)

 

苦しい実が続くことは、自分にとって良いことだ。なぜなら、苦しいということは、私が現に生きて執筆活動を続けているということだから、というわけです。病気に伴う激痛の中でも、子規は、やる気満々なのです。

 

しかし一方では、子規は、このころになると自分の死期を悟るようになります。そして、この年の5月、過ぎ行く春の中で、彼にとって最後の春に別れを告げるのです。

 

 

3.最後の春との別れ

すなわち、『墨汁一滴』の明治34年5月4日の項に、「しいて筆をとりて」という詞書を添えて、10首の歌が掲載されますが、その最初の2首が次の歌です。

 

「佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに」

(佐保神の華やかな春との別れは悲しいものだ。またやって来る春に再び会える私ではないのに)

※佐保神とは、佐保姫とも言いますが、春の神、つまり、春を創り出すとされている神です。

 

「いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす」

(いちはつの花が咲きだして、私の目には今年が最後となる春が過ぎようとしている)

 

自分の死期を悟りつつ、「これが自分にとって最後の春だ」と詠うときの子規の心境を察するに、私の心にも強く訴えてくるものがあります。「こんな心境になる時が私にもいつか来るのかなあ」と思いめぐらしてしまうからかもしれません。

 

 

4.最後の柿との別れ

子規は、最後まで大食漢で、とくに柿が大好物でした。この年の秋、子規は、柿を食べながら、「柿を食べるのも今年が最後かなあ」と詠んでいます。

 

「柿くふも今年ばかりと思ひけり」

 

 

5.死を自覚した最後の日々

子規の、亡くなる前年は、間もなく訪れるであろう自分の死を感じつつ、年間を通して、一つ一つの自分の暮らしの経験を、「これが最後」と意識しながら生きていたのでしょう。

 

子規は、結局、翌明治35年の9月まで生きることができました。したがって、前年に、これが最後と別れを告げた佐保姫に、もう一度会うことができたのです。しかし、柿は食べることができたのでしょうか。

子規は、死の2日前まで執筆を続けて、亡くなっていきました。なんという精神力の持ち主だったのでしょうか。