1.現在の太陽暦

現在世界の多くの国々で採用されている暦はグレゴリオ暦です。グレゴリオ暦は太陽暦の一種ですので、以後、グレゴリオ暦のことを太陽暦と表記します。

 

太陽暦について、私は以前から疑問に思っていることがあります。それは、太陽暦の1月1日がどのように決定されたのかということです。たとえば、太陽が最も弱まる冬至を1月1日とするのであれば、理解しやすいと思うのですが、そうはなっていないのです。

 

太陽暦の1月1日は暦の起点です。1月1日が決まることによって、12の月が決定され、週が決定され、日が決定されるからです。つまり、1月1日が決定されることによって、暦の1年のサイクルが決定されるのです。しかも、太陰暦の多くも太陽暦に合わせて調整される場合が多いので、その意味でも太陽暦の1月1日は重要な役割を果たしています。

 

2.説明不可能な1月1日

ところが、そのとても重要なはずの太陽暦1月1日が、いつ、どのように決定されたのか、実はあまり分かっていないのです。たとえば、24節気の場合は、冬至、夏至、彼岸など、太陽の運行に基づいて設定されていますので、天文学的に説明が可能です。しかし、太陽暦1月1日は、天文学的な説明もできません。また、西暦紀元や日曜日の場合は、キリスト教的な説明が可能ですが、太陽暦1月1日はキリスト教的な説明もできません。

 

冬至ともキリスト誕生日とも少し外れた、何もない説明不能なところに1年の始点として元旦を置いたのはなぜなのでしょうか。

 

3.太陽暦の起源

太陽暦1月1日は、イエス・キリストが生まれるずっと前にすでに決定されて、決定の経緯はいつの間にか忘れられてしまいました。しかし、その決定はそのままずーっと現代まで受け継がれてきたようです。

 

4.春が始点の暦

ヨーロッパでは、紀元前8世紀ごろにはすでに暦が使われていました。そのころ使用されていた暦では、現在の3月ごろが1年の始まりだったようです。当時の暦は、農作業の開始時期を決定するための暦だったのです。つまり、3月ごろは農作業の開始時期にあたりますので、そこに1年の起点を置くというのは理解しやすいと思います。

 

しかし、もともと農作業の開始時期を1年の始まりとしていた暦が、ある時点で、今の真冬の時期の1月1日に変更されるのです。なぜ変更されたのでしょうか。変更の経緯はよく分からないようです。そこで、そのことについて、私なりに推測してみたいと思います。

 

5.10か月の暦から12か月の暦へ

それを理解するためには、当時の暦の仕組みを知る必要があります。

当時使用されていた暦では、1年は、農耕期の10か月しか割り振られていませんでした。当時は農事を決定するための暦でしたので、農耕が行われない冬季には月が割り振られていなかったのです。

 

しかしその後、農耕が行われない冬季にも、いまの1月と2月にあたる月が割り当てられ、1年を通した今日のような12か月の暦が生まれるのです。そして、その新たに加えられた最初の月が1年の始まりとされました。

 

つまり、新しく付け加えられた二つの月を、11月と12月に割り振るのではなく、1月と2月に割り振ったのです。では、なぜそのような割り振りにしたのでしょうか。

 

6.終点が起点

ここからが私の妄想です。

つまり、農耕期が終わったところから、次の1年が始まると考えたのではないかと思います。

なぜそのように考えることができるのでしょうか。それは、まったく根拠のない考えではなく、1日がどのように考えられていたのかということをヒントにしています。

 

7.1日の考え方

ヨーロッパの伝統的な考え方では、1日の始まりは日没からという考え方があります。つまり、1日は日没によって終わるとともに、その日没が起点となって次の1日が始まると考えられます。

その考え方は今でも生きていて、たとえば、ユダヤ教の安息日は週の最終日にあたる土曜日なのですが、その土曜日は、金曜日の日没から土曜日の日没までと決められています。つまり、金曜日の日没から土曜日が始まると考えられているのです。

 

このような1日の考え方に基づいて、1年も、従来の暦の終わりが次年の起点となると考えられ、新たに付け加えられた二つの月のうちの最初の月の始まりが、1年の起点として1月1日とされたのではないでしょうか。

 

8.現時点での理解

そのような決め方がされたので、現在の太陽暦1月1日について、天文学的な説明ができないし、そのほか合理的な説明もできないということになるのではないでしょうか。

 

ともかく、太陽暦1月1日がどのように決定されているのかについて、いまだに説明がつかないようですから、私は今のところ、以上のように理解しておこうと思います。もちろん、これは私の妄想ですから、もっと良い、もっと合理的な説明が出れば、私はいつでも直ちに自説を撤回するつもりです。