今日から3月です。ついこのあいだ正月を迎えたと思っていたら、もう2か月が過ぎ去ってしまいました。振り返ると、あっという間の出来事です。

 

3月といっても、陰暦ではまだ1月なので、寒さがぶり返す日もあると思います。ときに、思いもよらない寒さがやってきます。私の時代は、3月初めに大学の入学試験が行われました。私のときは、試験日が3月3日と4日だったと思うのですが、その初日に小雪が舞いました。私たち受験生は、昼の冷え切った弁当を受験会場横の吹き曝しの花壇のふちに腰かけて震えながら食べたのを覚えています。風の強い、身に染みるほど寒い一日でした。大学受験についてはそれだけが鮮明に記憶に残っています。受験の時代は思い出したくもないと長いあいだ思っていたのですが、近ごろは、あの頃はどうだったかなあと思い返すことがあります。無意識の抑圧が強いのか、いくら思い返しても何も出てこないのですが。

 

ときどき寒さがやってくることはあっても、3月になればもう春です。3月と聞いただけで春の気分がわいてきます。私の精神がいかにことばによって操られているかが分かります。それが知識としては分かったとしても、面白いことに、私の気分は春なのです。信じ込んでいるというわけではないのに、春なのです。これは錯視の現象と似ているのかもしれません。錯視が自然とそう見えてしまうのと同じように、3月の声を聞くと心が自然と春と感じてしまうのです。

 

春の日を題材にした句をいくつか拾い集めました。

「春の日や庭で雀の砂遊び」(鬼貫)

「泣き寄る子喉の奥まで春日さす」(加藤楸邨)

いずれも写実的な句ですが、これらの句の中に私たちは春のひとコマを感じます。しかし、分かりません。春を感じるのでしょうか、それとも春を感じさせられているのでしょうか。どうなのか分かりませんが、自然に春の情景を感じてしまいます。感じるように日本人の精神が、長い和歌文化の歴史の中で、創られているということではないでしょうか。

 

春は風が吹く日も多いのですが、そんな春の風をテーマにした句があります。

「竹の風ひねもすさわぐ春日かな」(室生犀星)

「春の日や風よりかろき服を買う」(秋山恵子)

前の句は、春の日に竹林が風にざわめく情景を写し取っていますし、後の句は、冬の重たい服を脱ぎ捨てて、風にもなびくような軽やかな服に着替える情景を描いています。この情景もまさしく春です。春を感じます。

 

私は、和歌や短歌や俳句はあまり分からないのですが、ことばによって創り出される世界の深さ、繊細さは本当に素晴らしいと思います。日本人がことばによって創り出す自然の姿や心の在り様は、長い年月をかけて培われてきた和歌文化のなかで鍛え上げられた日本人の精神がなせる技だと思います。