今日は2月の晦日、2月29日です。二月尽(にがつじん)ということばがあります。内田百閒が「よべの雨に家々ぬれて二月尽」と詠んでいます。夕べから降り続いている今日の冷たい春の雨の中で二月が過ぎていく今年の二月尽に相応しい一句だと感じます。

それにしても、2月が過ぎ去り3月という声を聞くだけで、暖かい本格的な春の訪れを感じます。

 

72候でいうと、今日から雨水の末候「草木萌動(そうもくめばえいずる)」に入ります。草木が柔らかい薄緑の芽を出し始める時節という意味です。冬のあいだを耐え忍び、身体いっぱいに蓄えたエネルギーを新芽として開放する季節が訪れたというのです。これから先、暖かい陽気が広がっていくにつれて野も山も少しずつ明るい緑に覆われていきます。

 

しかしその前に、この時期、野山に緑の発芽を促す恒例の行事、野焼きが各地で行われます。

九州では、阿蘇の野焼きが有名です。阿蘇地方は、太古の巨大な火山噴火によって生まれた広大な草原が広がっていて、畑地にも適しないので、牛の放牧が行われています。その広大な草原で毎年恒例の風物詩として野焼きが行われます。

 

野焼きは、冬の枯れ草を焼き尽くして、ノミやダニなどの害虫を駆除するとともに、野焼きの灰を肥料として草の発芽を促すという効果があるようです。しかし、それだけでなく、草原そのものの保持に縦横な役割を果たしています。阿蘇のあの美しい見渡す限りの草原は、自然に生まれたものではなく、人間が創りだした景観なのです。野焼きをしなければ、たちまちにして灌木が生い茂り、藪となって、美しい草原は失われてしまうのです。毎年、春に野焼きをすることによって灌木などが生えるのを防いでいるのです。したがって、阿蘇の美しい広大な草原は牛の放牧を行うために人間が手を加えて創り出している人口の景観なのです。

 

阿蘇の野焼きを詠んだ句があります。

「走る野火とどまる野火や阿蘇の牧」(有働木母寺)

野焼きは、枯れ草が乾燥している時期を見計らって行われるので、枯れ草に点火されるや猛烈な勢いで燃え広がっていきます。まるで駆け足しているような勢いで広がっていきます。そんな情景をとらえたのでしょう。

 

「野を焼いて阿蘇の大溶岩現はるる」(山口冬男)

阿蘇の草原は、火山噴火によってできたものですから、いまでも溶岩があちこちにゴロゴロと転がっているのです。草に覆われているときには見えなかったそんな溶岩が、焼け野原になるとむき出しになって現れでるのです。

 

東京地域でもかつては野焼きが行われていました。とくに、武蔵野台地はもともとススキ系統の植物が良く育つ土地柄で、水が乏しくて畑もできない土地が多かったので、ススキの野原があちこちになりました。しかし、江戸時代に多摩川の水を引く大工事が成功したことによって、広い畑を開くことができました。そんな土地柄の武蔵野で野焼きが行われていたのです。

「むさし野の浮間の原の草を焼く」(高浜虚子)

これは高浜虚子が見た、浮間地域の野焼きの風情です。

 

「多摩川や堤焼きゐるわたし守」(水原秋櫻子)

これは多摩川にまだ渡しが存在していたころの野焼きの風情です。

いまは、東京はどこへ行っても人家が立ち込めているので、野焼きはできなくなってしまいました。しかし、野焼きを実見した高浜虚子も水原秋櫻子も前後まで生きていますので、少なくとも戦前までは野焼きを行う環境があったのではないでしょうか。あるいは、場所によっては戦後も行われていたのかもしれません。

 

「野を焼いて今日新たなる雨降れり」(渡辺白泉)

これも野焼きを詠んだものですが、「新たなる雨」というのがいいですね。野焼きによって野原がいったんリセットされ、雨によって新しい生命の循環がスタートするという風情ですね。

 

ところで、阿蘇の野焼きですが、最近問題が起きています。人手不足によってこれまで通りの野焼きがだんだんできなくなってきているという問題です。近年は野焼きの面積が狭まってきているということです。阿蘇の草原を貴重な文化遺産として残そうという呼びかけを行う会が発足したり、野焼きのボランティアを募ったりといった活動が行われていますが、果たして成果を上げることができるのでしょうか。気がかりなところです。