今日は二十四節季の暦の上では冬の終わりの日です。

まだまだ寒い日が続きますし、実際、今日は風が冷たくて震える寒さです。

しかし、寒い中にも春はもう来ています。

土の中で冬ごもりをしている虫たちも、新芽を膨らまそうと待ち構えている植物たちも、今か今かと春を待ちわびているのです。その情景を、松本たかし氏が、「地の底に或るもろもろや春を待つ」と詠みました。

 

今日は冬と春を分ける節分ですから、各地で節分の豆まきが行われます。この数年、新型コロナ流行の影響で、大勢が集まっての豆まきは控えられていましたが、今年は盛大に行うところが増えたのではないでしょうか。

各地で人々が集って行われる豆まきの賑わいにも春の活気が感じられることになるはずです。

 

そころで、節分とどのような関係にあるのか分からないのですが、東京などでは今日は、あちこちの社寺でだるま供養が行われます。

一年間働いてくれただるまをねぎらい、焚き上げて供養するという行事です。

だるまの効能期間は1年ですので、祈願が成就してもしなくても、1年たったら供養をして焚き上げを行い、また新たなだるまを手に入れて次の1年の願いをたてるのです。

 

供養というのは、もともとは捧げものをすること、とくに、感謝を込めて願いを込めて捧げものをすることを意味します。一般的には、死者の冥福を祈って行われます。供養をすることによって、亡くなった人を思い起こし、感謝し、そして来世での幸福を祈って供物を捧げるのです。毎月の亡くなった日に行われる月命日の供養や、1周忌、3周忌、5周忌などの年忌供養などが行われます。

 

ところが、日本では、この死者に対して行われる供養が、死者以外のものに対しても行われるのです。

これが、日本社会の供養をめぐる興味深い点です。日本の供養を見ていると、日本人の考え方や心の在り方の一端が見えてくるように思われます。

 

たとえば、日本では、使い古した針に対して針供養が行われます。裁縫を職業としている人々や裁縫の稽古をしている人々などが、裁縫の一番大事な針が折れて使えなくなったりしたときに、その針に感謝の意をこめて供養してあげるのです。

裁縫の針に限らず、料理人にとっては包丁、大工職員にとってはノミやカンナなど、職人にとって最も大事な道具を使い古して使えなくなったとき、その壊れた道具をただ無造作に捨てるのではなく、捨てる前に、その道具のいわば冥福を祈って、供養してあげるのです。

 

もっとも、現代は、欧米風の考え方に慣れて、道具は道具、たんなるモノと考えて、供養などという古臭いことはやらないという人がほとんどかもしれません。

しかし、古来の日本では、道具にも何かしら魂のようなものが宿っていると考えて、長年お世話になった道具を廃棄する際には、感謝を込めて供養するという考え方がありました。

それ以外にも、眼鏡供養、鏡供養、ハサミ供養、写真供養、表札供養、人形供養など、多種多様などが供養の対象になるようです。

このような供養は、長い歴史の中で日本人の中に育まれてきた独特の心性から出てくる行為です。

私はこのような行為の中に日本の姿、日本人らしさを感じます。

 

ほかにも、生き物を扱う職人や商売人たちも、自分たちが扱っている生き物のための供養を行います。

ウナギ供養などがその分かりやすい例です。深い人間のために犠牲になったたくさんのウナギたちの魂の安寧、冥福を祈って供養をするのです。

「自分の都合で散々殺しておいて、供養もなにもないものだ」という人もいるかもしれませんし、実際、そういう側面もありますが、せめて供養をしてあげるというのが日本人としての心の在り様ではないでしょうか。

 

福岡県でも興味深い供養の例が見られます。筑後川に生息する宮入貝が、日本住血吸虫の中間宿主であることが分かって、宮入貝を根絶する対策がたてられました。そしてその後で、久留米市に宮入貝のための供養碑が建てられています。人々のために犠牲になった宮入貝を供養するための碑なのです。

巨大な魚市場があった東京築地の波除稲荷神社の境内には、活き魚塚、アンコウ塚、エビ塚、玉子塚、昆布塚、はまぐり塚などがあります。それぞれの魚や食べ物に感謝を捧げて供養を行うための石塚です。

そして、極めつけつけは、怪獣供養です。これは怪獣物の特撮映画で有名な円谷プロダクションが始めたものだそうです。興味深いですね。

 

ところが、ここに不思議なことがあります。

同じ生き物でも、野菜やくだものや樹木や花卉に対する供養は行われていないようなのです。

八百屋や青果市場で野菜のための供養をするということは聞いたことがありません。

リンゴやミカンの生産農家や出荷組合でそれら果樹のための供養をするということも聞いたことがありません。寿命を迎えたミカンやリンゴの樹木に対して供養をするということも聞いたことがありません。

同じ生き物なのに、植物に対してはなぜ供養を行わないのでしょうか。しかも、道具にさえ、生命が通っていないにもかかわらず、供養をするというのに、植物にはなぜ供養しないのでしょうか。

ここにも、これまで日本人が培ってきた供養に対する考え方が反映しているに違いありません。

もう少し考え続けなければならない問題です。

 

そして最後に一言、人間の生活にとって、最も身近で、もっとも重要な植物に対しては供養をする必要はないのでしょうか。