私の様な凡人にとって、人生は時に化かし合いである。

誇張し、良く見せ、これでもかと自分をひけらかす。
不本意ながら、そういった機会は度々訪れる。
私がよく利用するのは、奇襲のような小技だ。本筋とは関係ない、一見何も無いような野原に、主たる武器を際立たせるための援護武器を仕込む。あるいはその場でそれとなく静かに仕留める。
最たるものは、就活だった。もうだいぶ昔の話だが。

就活で困りがちな「趣味」「特技」の欄。何を書いてもプラスにもマイナスにもならなそうな、当たり障りのない安息地帯。奇襲をかけるにはこの上ない絶好のポイントである。これを利用しない手はない。マグロの中落ちや牛タンを、工夫もせずに捨ててしまうのと同じことである。

私が趣味の欄に決まって書いたのは、「折り紙」と「鉄棒」である。趣味として書くには少し変わっているかもしれないが、誰でも経験のあるものだからこそ、アピールする際のストーリーを想像しやすい利点がある。
前もって触れておくと、私はこの趣味2つに対して、特段精通してはいない。小学校で習う程度のことから、一度一歩だけ踏み込んでみたことがある、という程度であるし、実際の面接官に対する主張内容も、全てではないにせよ、事実とは異なる点は多々ある。

「折り紙」で主張した長所は、家庭環境と計画力だ。
まず家庭環境に関して。男であり若者(当時)である私の趣味が折り紙となると、相手はまず必ず動機を聞いてくる。返しとして、私がおじいちゃんっ子で、祖父の入院中に祖母が作っていた千羽鶴に協力するところから始めまして…と切り出し、端的に家庭環境が円満であることをそれとなく伝える。大企業であるほど、本人がどのような環境で育ってきたか、というのは実は気になるらしく、案外好印象を与えることができる。
次に計画力に関して。折り紙というのは、折る工程が増えれば増えるほど、折った際の微妙なズレが最後に大きな誤差となって表れてくる。これが折り紙が難しく、もどかしいと思わせる最大の要因だろう。しかし工程数の多いものを何度か折っていて、あることに気がついた。どこかしらの工程で、後に誤差が表れてきた際に打ち消してくれる、予備シロのような誤差を予め仕込んでおくことができるようになるのである。この予備シロを効果的に折り込むことで、最終的に綺麗な作品を安定して作ることができるようになった。この予備や余裕を工程に盛り込むという考え方は、実は研究におけるスケジューリングにも役に立ったし、入社後も有用なんじゃないかと思う、と最後に少しだけ付け加える。言っている内容だけ見れば、いたって平凡で当たり前。長所としてアピールする場であれば、これにさらなる着色を加えても、良くて60点といったところだろう。しかし趣味への質問で60点の返答など期待していない面接官は、面を食らうわけである。まさに奇襲、だまし討ちだ。

「鉄棒」で主張したのは、つらいことを楽しめるポジティブ性である。
そもそも鉄棒を始めたのは、高校時代の部活動でのトレーニングだ。素直に鉄棒をやるのではなく、筋トレのためである。すなわち鉄棒は「つらいこと」の代名詞へと成長していくわけだ。
そんな鉄棒であっても、頻繁に手にとって触れていると、徐々に愛着が湧いてくるものである。そしてちょっとした休憩時間に技などの練習を始めてみると、どんどん楽しくなってくる。技の練習をする余裕があるのか、というツッコミは幸いにも来なかったが、これも趣味程度のことを話しているためだろう。次第に、鉄棒自体への敵意がなくなり、トレーニングにも一層の力が入るようになる。
結果、嫌いなことの中にも自分なりの楽しみを見出し、適応できるポジティブ性をアピールする。


どちらも、主張している内容には大したことはない。しかし何を書けばよいかと困りがちな趣味特技の欄であっても有効活用すればこれだけアピールする場を作れる。もっとうまく使えている人だっているだろう。
そして主張内容以上に、奇襲であることもあって効果的に相手に伝わる。長所を話しますよ、と前置いた場合と異なり、粗探しをされない。すんなりと素直に良い面だけを拾って貰いやすい。

ぱっと見無駄に見えるところにこそ、だからこそ、奇襲のための突破口あり。成功を切望する場であるからこそ、隅々まで抜かりなく芸を仕込む。その中のちょっとした遊び心にこそ、意外と決め手が隠れているのかもしれない。