2023年10月17日(火)快晴☀

合志市郷土史愛好会西支部では

椎葉村研修旅行(日帰り)は、29名が参加しました。

行程は下表の通り

椎葉村の歴史

九州脊梁山地の中央にあり、急峻で深い緑に包まれた椎葉は正に秘境である。

椎葉に残る子文書に「椎葉山由来記」と「椎葉山根元記」がある。

両書とも、人吉藩が椎葉を支配したとき、椎葉の由来について椎葉山民から聞き取り調査して記録された物地言われる。

伝承では、壇ノ浦で滅亡した平氏の残党が、この秘境に落ち延びたとされる。

追討のために下向して滞陣中の那須大八郎宗久と鶴富姫の間に娘が生まれた。

宗久は鎌倉の命令で関東へ帰ったが、娘が婿をとり、那須下野守と称したという。

また、椎葉という地名は宗久の陣小屋が椎の葉で葺かれていた事に由来するという。

戦国時代初期には”椎葉山十三人衆”と呼ばれる有力者が支配した。

戦国時代末期には「那須三人衆」が勢力を伸ばした。

関ヶ原の戦い後は、徳川家康から鷹巣山管理を命ぜられた

「那須三人衆」が統治した。

1618年に、那須三人衆と他の那須氏(十二人衆)との間で内紛を起こしたので、幕府は人吉藩の武力で1620年に鎮圧して天領とした。

1656年に人吉藩の預かり地となり、幕末まで続いた。

人吉藩は代官を派遣する等の直接統治はせず、地元有力者に任せた。

幕末の石高は、焼き畑を中心に590石でああった。

源氏の兵の多くがこの地にとどまったためか、

椎葉村の人口の約20%は那須姓との事である。

 

椎葉村への移動は大型バスでは道路事情で困難な為、

小型バス2台に分乗して最初の目的地「八村杉(やむらすぎ)」へ。

 

10時00分「八村杉」(国指定天然記念物)

 

十根川神社の境内にあり、樹齢は88年以上、樹高は54m、根回り19m、幹回り13mであり、樹高は国内で2番目、幹回りは国内4番目と言われています。

伝説によれば、那須大八郎宗久の手植えと言う。

八村杉は樹高が高いだけではなく、枝下(一番下の枝から根元までの長さ)が27mト非常に長いことが特徴です。

幹が真っ直ぐ天に向かって伸びる整然とした美しさから、

杉の巨樹の代表例に値すると評価されている。

明治初期まで、十根川神社が八村大明神と呼ばれていたことが

八村杉という名前の由来である。

近くにある十根川集落は急斜な山肌に寄り添う古民家が立ち並ぶ山村集落として

国の重要伝統的建造物群保存地区となっています。

その景観をバックに記念撮影

10時50分:上椎葉ダム

 

高さ11おm、長さ341m、総貯水量9,155万トンであり、日本最初の巨大アーチ式ダムとして、1955年に竣工した。

このダムの建設で得られた知見が黒部ダム(日本最大)の建設に生かされた。

 

建設は建設工事の連続であり、105名の方が殉職した。

殉教者を弔うために三女神像が女神像公園に建立されました。

三女神の正面は仏教の慈悲を表す日本女性、

左はキリスト教の愛を示す中世の外国女性、

そして右に天地を指す水の象徴の女神を象っている。

 

 

上椎葉ダムによって形成された人工湖は、

小説家吉川英治によって

「日向椎葉湖」と命名され、2005年にダム湖百戦に認定された。

 

11時20分:那須家住宅(鶴富屋敷)

椎葉を代表する建築物で那須大八郎と鶴富姫の悲恋の舞台にに建つ

大きく太い材料得御使用した椎葉独特の型式(一列型平面型式)で、約300年前に建てられた。昭和31年(1956年)に国の重要文化財に指定されました。

屋根は本来茅葺きだが、防火と耐久性のために銅板が被せられている。

 

昼食は

鶴富御膳(25名)とざるそば定食(4名)でした。

 

椎葉民俗芸能博物館

儀礼・慣習・民俗文化や平家落人伝説等を写真や民具・祭礼具等展示されています。

日本民俗学の父・柳田国男が「後狩詞記」の執筆にあたり、

当時の村長と「狩の儀式について遣り取りした文書が展示されています。

 

 

九州やアジア全体の民俗芸能をも取り扱っており、

その点で全国でも珍しい博物館とされています。

 

各階の展示テーマ

 

1階第一展示室:民俗文化の差と・椎葉

第二展示室:春の暮らしと祈り、夏の暮らしと祈り 

2階第三展示室:秋の暮らしと祈り

3階:第四展示室:冬の暮らしと祈り、椎葉の民俗音楽

4階多目的ホール;屋外の厳島神社や相撲場へ続く

 

 

展示写真での「臼太鼓踊り」は

子どもの頃お祭に家族兄弟達と出かけ

人吉城跡でこの勇壮な臼太鼓踊りには感動したものでした。

実際の踊りを見たのはこの時だけでしたが、

今でも記憶に残り「驚きと感動」は生涯の宝物として記憶に残し

我が故郷を誇りにしたいと思います。

(このように記憶に残っているのは

当時、人吉城跡の樹木が立ち並ぶ場所が良かったのかもしれません)

 

狩猟の作法書

椎葉では数多くの狩猟の作法書を伝えている。

栂尾には天明7年(1787年)、栂尾には、

「おさえまつり かけぬい 熊のひほどき」があり

しし(獲物)の慰霊や解体の作法が細かく記される。

また、熊の解体作法が記されており、

江戸時代には熊も狩猟も盛んだったことが伺われるがわれる

川の口には 明和5年(1768年)書写の「小猟師一流之書」があり

そのなかには小摩の猟師が山の神の産に行き会い、

介抱した為にの獲物をたくさん授かったという説話が記される。

この資料は、柳田国男氏が「後狩詞記」で紹介した

「狩り巻」との関連性が認められることから、

山の神の産を助ける話が江戸時代から

相当広範囲で語られていた事がわかる。

 

サカメグリの(禁漁区域の方角)

 

 

山の神

 

猟師は山の神を信仰する。統治では一般には正・五・九月の山の神祭りである。

しかし、猟師はこの外に、

漁のため入山するときや獲物を捕獲した際にも山の神を祀る。

尾前の尾前義則氏は、山の神に「諏訪の祓い」を唱える。猟師は山の神と共にコウサギという神も信仰する。獲物が捕れたときなどは、心臓(マル」や肺(アカフク)、肝臓(クロフク)などを7切れにして捧げる。コウサギは猟犬の死骸とも言われる。

管内のガイドさんに耳を傾ける皆さん

帰りのバスからの夕日

 

 星子支部長さんからの挨拶

 

 

皆様、貴重な研修会お疲れ様でした!