2021年11月12日(金)曇小雨あり

 

郷土史西支部研修旅行

 

八代市方面研修の説明資料 

※以上は郷土史愛好会西支部長が

研修のためとりまとめたものを抜粋したものです。


1.八代の歴史 
八代は古い時代から中央と関係があり、記紀や万葉集に登場し、景行天皇が「水島」神に祈ると泉が湧いたという伝説が記されている。白鳳9年(681年)に妙見信仰を持つ文化集団が渡来し、妙見上宮・中宮・下宮が逐次創建され、門前町として発達した。 
下宮が今の八代神社である。 鎌倉幕府討幕時に活躍した伯耆国の名和長年の子、義高が建武元年(1334年)に八代荘の地頭職となって古麓城を築いた後は城下町兼門前町として繁栄した。 懐良親王が菊池に入る前年の正平2年(1347年)に奈良木
町宮園に10日間程滞在した。 今川了俊に攻められて弘和元年(1381年)に菊池城(守山城)が落城、更に宇土城が落城した後は、元中9年(1391年)の南北朝合一までの約3年間、高田に征西府がおかれ、近くに名和氏の居館や菊池館があった。 
名和氏の時代が約150年間続いた後、球磨の相良氏が古麓城に本拠を移し、相良氏が戦国大名として八代を約90年間治めた。 その間、遙拝堰はじめ多くの用水路が作られ、国際貿易港の徳淵津(とくぶちのつ)は中国大陸との貿易船で賑わった。 
また、南北朝の頃に御免革(八代染革)が作られ、征西府の財源となった。 豊臣時代、肥後南半国の領主となった小西行長は古麓城を廃城とし、天正16年(1588年)に 麦島城を築いた。 関ヶ原の戦いの後、肥後一国の領主となった加藤清正の城代として加藤正方が慶長17年(1612年)に麦島城に入った。 
麦島城は元和元年(1615年)に出された一国一城令の例外とし
て残ったが、元和5年(1619年)の大地震により崩壊し、松江城
(八代城)が新たに築かれた。 寛永9年(1632年)の加藤氏の
改易後は細川忠興(三斎)が隠居所として松江城に入城した。 
正保2年(1645年)、忠興死去後に細川藩筆頭家老の松井興
長が入城した。以後、幕末まで松井家3万石の城下町として栄えた。 また、中 世 の海 岸 線 はJ R 鹿 児 島 本 線 付 近 で、その西 側 には海 が広 がっており、加 藤 清 正 以 降 の干 拓 で耕 地 化 された。その干 拓 面 積 は八 代 平 野 の3 分 の2 に
達 しており、遥 拝 堰 で取 水 された球 磨 川 の水 が利 用 されている。 2014年(平成26年)、市内にある古麓城跡、麦島城跡、松江城跡と平山瓦窯跡の4遺跡が、「八代城跡群 古麓城跡 麦島城跡 八代城跡」として、国指定史跡となった。 

2.八代神社(妙見宮)
その昔、妙見神が亀と蛇が合体した想像
上の動物「亀蛇(きだ)」の背に乗って海を
渡ってきたという伝承があり、上宮・中宮・
下宮の三社からなる。 なお、妙見神とは
北極星・北斗七星の象徴である。 
上宮は平安遷都翌年の延暦14年(795年)
に、中宮は平治の乱翌年の永暦元年(1160年)に、下宮は平家滅亡翌年の文治2年(1186年)に国家安泰を願って建立と伝わる。 八代・下益城・葦北三郡の一の宮として崇敬を集め、近世以降は加藤氏や細川氏らの帰依を受けて発展した。 
現在の社殿は下宮にあたり、元禄12年(1699年)と寛延2年(1749年)に改築されたもので熊本県指定重要文化財である。 
秋に開かれる妙見祭は八代神社の例大祭であり、「八代妙見祭の御幸行事」として、国の重要無形民俗文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産として登録されている。 神輿・神馬・獅子舞・花奴・笠鉾・亀蛇・飾馬などの神幸行列がある。 境内にある巨樟は幹周り:約7.5m・高さ約15m・樹齢約600年である。 
3.懐良親王の陵墓 
懐良親王は後醍醐天皇の十六皇子で、征西将軍となり九州における南朝方の中心として活躍された。 永和元年(1375年)に征西
将軍職を良成親王に譲って筑後の矢部(星野村)に隠退され、弘和3年(1383年)に矢部で御逝去された。 
懐良親王の墓は各地に伝説があったが、明治11年(1873年)宮内省の調査で、八代郡宮地村(現八代市)の墓地を懐良親王の墓(※)とし、翌々年八代城本丸跡に懐良親王を祀る八代宮が創立された。 このお墓は良成親王の命により、菊池家17代惣領の武朝が造営したもの。 陵 墓 内 には、懐 良 親 王 直 筆 銘 の宝 篋 印 塔 ( ほうきょういんとう) が、そして南 側 には菩 提 寺 の悟 真 寺 ( ごしんじ) がある。※ 宮内庁は当所を懐良親王の墓と認定しているが、懐良親王終焉の地に建つ大円寺(筑後の星野村)近くの山中にある墓の方が親王の墓として自然である。(星子注記) 

4.悟眞寺 
妙見神を護る天台宗の「護神寺」として開山。 
元中7年(1390年)、良成親王の命で菊池
武朝が懐良親王の菩提寺として中興して
「悟真寺」と称した。曹洞宗永平寺の末寺。 
懐良親王の御法名「悟真大禅定門(ごしんだい
ぜんじょうもん)」から、寺号を悟真寺とした。 
小西行長の時代に破却にあい、加藤氏の時代
に現在地に再興されたと伝わる。 
本堂の本尊として釈迦如来を祀り、境内の御霊殿には懐良親王の霊が祀られている。懐良親王御自筆銘の御両親御霊牌や懐良親王画像なども奉安されている。 
5.春光寺
八代城主松井家の菩提所として延宝5年(1677
年)に建立された臨済宗南禅寺派の末寺。 
本堂に松井家初代の康之像をはじめ、歴代及
び松井家の人々の位牌が安置され、お寺の背
後に墓所がある。 なお、春光寺の寺号は松井
康之の法号「春光院英雲宗傑」にちなんでいる。 
明治10年(1877年)の西南の役で戦場となり、
所々に弾痕が残っている。 近年は句碑寺、アジサイ寺としても有名。 この寺の裏山一帯が、中世の八代城(山城、古麓城)があったところ。また、 約80m南西に古麓城の鎮守として勧請された古麓稲荷神社があり、球磨川や八代平野を一望できる。 春光寺建立前から古麓城の中心的な施設があり、豊臣秀吉がフロイス
に面会した場所と考えられる。 裏の駐車場に古麓城の説明板がある。 

6.古麓城

春光寺駐車場設置の説明板で説明を受けるのみ 
古麓町の東側の山中に築かれた山城群の総称。 名和氏の時代に飯盛城・丸山城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城が築かれ、飯盛城が主城であった。 相良氏の時代に新たに新城・鷹峯城が築かれて合計七城となり、新城が主城であった。 中世の八代は、城下町の麓集落、妙見宮の門前町、大内氏の許可で日明貿易が行
われていた国際貿易港「徳淵津」の港町を合わせ、人口5万人規模の南九州最大の都市として繁栄していた。 古麓城はその交通の要衝を見下ろす位置にあり、八代荘を守る上で最も重要な要害であった。 
7.徳淵の津跡(※)
松江城の約500m南の前川の岸に、中世湊であ
る徳淵の津荷揚げ場跡(石灰岩の石段)がある。 
徳(財宝)の集まる津(港)として海外との貿易で
繁栄した。 豊臣時代には秀吉の直轄港であった。 
江戸時代には、船着場や荷揚場、番所があった。 
近くに、河童伝来の碑、薩摩街道八代札の辻・

十一里木跡がある。 
※ 徳淵の津辺りは入江であった。 加藤正方が開削を開始し、細川忠興の時代に完成して球磨川から川船や筏が乗り入れることが可能になった。 
8.河童渡来の碑 
球磨川の河口に近い徳渕の津には、「河童渡来の碑」がある。 この碑文によると、1600年ほど昔の仁徳天皇の時代、古代中国の呉の国から九千匹のカッパの大群が八代に上陸した。 そのカッパたちのいたずらが人々を困らせていたので、加藤清正が、九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。 降参した河童たちは
久留米(福岡県)の有馬公の許しをもらい筑後川に移り住んだ後、改心して水天宮の使いを果たすようになったとの伝承がある。 
悟真寺には、カッパ伝説が残り、毎年6月第1日曜日に「カッパ祭り」が行われる。 
9.いけす料理 宗弘(昼食) 
社長が漁師の魚介・海鮮料理店。 八代・天草の魚市場に加入している為(鮮魚仲買)、旬の地魚や天然活魚をそのまま産地直送にて提供している。参加申し込み時に、A;煮魚定食、B;天ぷら定食から選択する。 
10.麦島城跡(国指定史跡) 
1588年(天正16年)、肥後に入部した小西行長
が重臣小西行重に命じて球磨川の北岸に築城。 
当時はまだ前川の開削が行われておらず、麦島
城の北側は大きな入江となり、中世以来の貿易
港である徳淵津があった。 海上交通の要所な
ので、豊臣秀吉の直轄港であった。 麦島城は
単なる小西氏の支城だけではなく、南蛮貿易の
拠点として、豊臣政権下における有力城郭とし
て機能したと考えられる。 
「関ケ原の戦い」後に加藤清正がこの地を与えられると、家臣の加藤正方が城代となり、改修を行うと共に前川の開削を開始した。 麦島城の改修後の規模は、近年の発掘調査によって、本丸東西部分で130m、本丸西側の二ノ丸を含めると東西400m、本丸西側に面する外堀の幅は50mを測る。 1615年(慶長20年)の大坂夏の陣後に発令された一国一城令に際しても、加藤領は本城・熊本城と支城八代城(現在の麦島城)の二城体制が特別に許された。 1619年(元和5年)に起きた大地震によって倒壊した。 
都市計画道路麦島線建設に伴う発掘調査が1996年~2003年に行われ、二の丸推定地からは、平櫓(ひらやぐら)と見られる建物が倒壊した状態で見つかった。 
日本唯一最古の城郭建築部材である。 2008年頃から見学者の便宜を図る為に天守台跡の整備が行われ、麦島城の概要を説明する為の写真付きの説明板が設置された。 また、八代市シルバー人材センター古城館の 1 階ロビーで、建設工事前に見つかった石垣遺構を、麦島コミュニティセンターで発掘出土物の一部を見学することができる。 
11.旧郡築新地甲号樋門 附・潮受堤防(国指定史跡) 
明治時代に当時の八代郡が行った干拓事業である
「郡築新地」に設けられた樋門。 明治33年(1900
年)に、「甲」・「乙」・「丙」の3箇所が建設されたが、
三番町にあるこの甲号樋門のみが当初の姿を残し
ている。 明治期を代表する我が国でも最大級の干
拓樋門であり、平成16年(2004年)に国指定重要
文化財に指定された。 基本構造は石造だが、アーチ部には赤レンガが用いられており、特に10連の連続アーチであることが
特徴。 昭和38年に新しい樋門が建設されてから
補助的な施設として残存している。 樋門の海側には南北約1Kmにわたり石積潮受堤防が残っている。 樋門長さは31.8m、樋門幅は8.3m、潮受堤防全長は1090.02m。 

12.水島(県指定名勝)・・・・・・日程の都合で見学しない 
球磨川河口にある周囲約200m、標高11mの無人島。 景行天皇に島の湧き水が献上されたと日本書紀に記されており、万葉集にも「聞きしごと まこと貴く 奇[くす]しくも 神さびをるか これの水島」(長田王[ながたのおおきみ])として登場する。 地域のシンボル的な場所である。 八代海の干拓により多くの島が陸続きとなった(地名にのみ残存)。 水島は由緒ある島として、水島を避けて干拓が行われた。
13.平山瓦窯跡(国指定史跡) 
南九州西回り自動車道建設工事に伴う発掘調査に
よって発見された「だるま窯」と呼ばれる瓦を焼いた
窯跡。 八代城か麦島城の瓦を焼いた重要な遺跡
である。 窯の近くまで不知火海が迫り、窯の南に
あった船河内港(ふなんこち)から船で瓦を城まで
運んだ。 3基確認された窯跡のうち、第1号・2号
瓦窯は、上部の構造物は破壊されていたが、下部は残存し、 
長軸380cm(1号窯)、445cm(2号窯)の規模である。 
構造はともに焚口を両側に持つ平窯で、燃焼室は皿状にくぼみ、
中央部の焼成室は3本の畝を有している。 出土した瓦には桔梗
(ききょう)紋・酢漿草(かたばみ)紋という、加藤清正・加藤正方の
家紋が認められ、麦島城から出土したと伝えられる菊花紋鳥衾
(とりぶすま)に酷似した瓦も出土している。 

14.高田御所跡・・・・・・バスが入れないので見学しない 
正平2年(1347年)、懐良親王が薩摩の谷山城から菊池に向かう途中に10日ほど滞在。 
大宰府が陥落すると、良成親王率いる征西府は、菊池、宇土と移り、宇土城陥落後は
八代市高田に最後の拠点を構えて、元中9年(1392年)の南北朝合体を迎えるまでの 
3年間を守り通した。九州南朝方の最後の征西府である。 現在、この地は小さな公園となり、「懐良親王御所址」と刻まれた石碑が静かにたたずんでいる。 
15.遥拝堰(八の字堰) 
木の杭を川に並べて水を堰き止めて取水
する南北朝時代の「杭瀬」が始まり。 
加藤清正が恒久的な石積みの堰を築き、
約2000町の水田を灌漑した。 
清 正 の石 堰 は川 の中 央 から下 流 へ
“八 の字 形 ”に自 然 石 を組 んでいた。 
末広がりの形から「八の字堰」、又は地名
をとって「遥拝堰」と呼ばれた。 八の字型
の遥拝堰は、急な流れを弱める効果があ
り、田畑への引水の効率化や、下流域の
瀬や淵の形成をもたらし、アユなどの様々
な生物が生息する豊かな自然環境を創出
していた。 増水時には石塘を水が越し、
両塘間は船や筏が通れる様に40m程あ
けられていた。 
八代平野では、清正以来300年の間に1万町歩
を超える新陸地が干拓で造成され、水不足が
顕在化したので、上流にコンクリートの遥拝堰
が昭和44年(1969年)に建設された。 
これにより八の字堰は姿を消し、下流域の瀬
や淵も消失した。 アユなどの魚類の良好な
生息場を保全・再生するため、4年の復元工
事を経て令和元年(2019年)5月に本来の
位置に八の字堰が復元された。 遥拝堰からの取水で従来からの水田と干拓地の新田を潤した。 昭和初期に約3600町の水田を灌漑した遥拝堰は、昭和から平成にかけての改修後は85%強の用水で氷川以南の約6340町の水田を灌漑し、工業用に15%弱の水が使われている。 更に、平成15年からは上天草・宇城地区
(10万人強の人口)の水道水に利用されている。 
遥拝神社境内にある「戦没者慰霊殿」の所から遥拝堰・八の字堰を見学する。 また、遥拝堰から1Km程下流で球磨川が左にほぼ直角に流れを変えている。右岸の提に当たる水流を弱める為の「天神七はね」があったが消失している。 復元を検討中とのこと。 
16.遥拝神社(正式名称 豊葦原神社) 
創建については諸説あるが、『八代市史』による
と「八代荘の地頭職となった名和義高が古麓城
下に用水の取り入れ口として抗瀬を作り、これら
用水施設の総鎮守として南岸の高田山の麓に
賀茂宮を勧請し、用水の守護と五穀豊穣の神と
尊んだ」とある。 『八代郡誌』には、「征西将軍
懐良親王(※)、高田御所御在館の時、常に当社
より吉野の行在所を遥拝せられ、社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四八段を献納せしめ給う。故を以って遥拝宮と称す」とある。(参道の石段の銘を確認しよう) ※ 懐良親王が高田御所に滞在されたのは正平2年(1347年)の10日間のみである。 
元中9年(1392年)の南北朝合体までの3年間は、後征西将軍である良成親王が高田の御所に滞在されていたので、遥拝されたのは懐良親王ではなく、良成親王であると思われる。(星子注記) 
また、『球磨神社記』によると、戦国時代、洪水で流され、前述の杭瀬に引っかかった球磨遥拝大明神の御神体(人吉市上林610にある遥拝神社の12体の木神像の1体)が、賀茂神社に祀られているのを知った相良義陽公が田畑を寄付し、遥拝宮としたとある。 
小西行長により社殿等は焼却されたが、江戸時代に再建されて遥拝宮となったと伝わる。 
明治期に豊葦原神社と改称された。 
境内に「高田みかん」が植えられており、由来の説明板がある。 

研修は小型バス3台に分乗し3人のガイドが説明しました!

※画像の場所の名称が違っているかもしれません!

違っていたらお詫びいたします!

申し訳御座いません(-_-;)


八代神社(妙見宮)にて

.懐良親王の陵墓にて

春光寺にて

いけす料理 宗弘(昼食) 

社長が漁師の魚介・海鮮料理店。 

八代・天草の魚市場に加入している為(鮮魚仲買)、

旬の地魚や天然活魚をそのまま産地直送にて提供している。

A;煮魚定食、B;天ぷら定食から選択する。 

これはA定食

食事風景

八代みかん(高田みかん)の由来の掲示板

遥拝神社(正式名称 豊葦原神社) 

 

 

宮原SAにて支部挨拶挨拶後、

それぞれのバス」で帰路につく」

 

研修所要時間 6時間 05分
移 動 時 間 4時間 35分
10時間 40分