Patriarch Kirill: by denying God's truth we ruin the world

TASS通信2015310

http://tass.com/russia/781767?page=6

 

インタビュワー:総主教猊下、感謝祭の期間において、真理はどこに求められるべきか、また、誰がその真理について占有をしているのか、ご教示頂けますか?

 

キリル総主教:共に考えてみるとしましょう。総じて、私にとって真理との調和の中に生きること、個人の真理との調和の中に生きる事はとても明確なことであり、真理についての個人的な理解からの前進について他者を判断する事には三つの異なる事柄があります。

 

何が正しく何が適切であるのかについて、人間のいかなる発想も究極的な真理ではありません。私は絶対者になることはできないのです。しかし、それは趣味の問題なのでしょうか?あなたは紅茶を飲むとき、砂糖かレモンを入れますか?私達はそれぞれが最も好ましいというもの、特定の個人が正しいと思う事を選ぶものです。

 

この文脈で語るならば、善と悪のような観念などなく、ただ意見と視点の複数性のみがあるという事を認めなければならないでしょう。

 

インタビュワー:あなたはすぐに哲学的な方向に話を向けましたが、私の質問はあなた個人にとって、真理とはどのような意味をもつのか、というとても現実的な問題に関するものでした。個々人それぞれの自由は一般社会との紛争の中におかれるべきではありません。

 

キリル総主教:明確に話すとしましょう。ただその前に、前の質問に結論を出しましょう。

もちろん、絶対的な真理は存在します。それは神の法です。神が私達、人類に、自由と意識の中に具体化された道徳の感情を与えました。しかし、両者は異なる方向に行使されることが可能なのです。明確にしておかなければならない点は、神の存在なしにいかなる絶対的真理もありえないということです。

 

正義について異なる理解というものはありません。現代社会において、この言葉はしばしば軽々しく扱われています。不確かさの乱用は誤りであり、窃盗でもあります。しかし、どこでこれが示されているのでしょうか?もし私の真理があなたの真理を拒絶したら?さあ、私は強く、この一つの理由により、私は誰であろうと傷つけることが可能であり、私の身に何が起ころうとも実力を行使することが出来ます。

 

私の言っていることの意味が分かりますか?神の真理を拒否することにより、私達は世界を破滅させているのです。これは失敗でさえなく、深刻な哲学的自由主義の悲劇なのです。哲学的自由主義が基礎となる限り、これらは超構造的な発想なのです。哲学的自由主義は完全な真理として、個人的自由に注目しています。それぞれの独立した個人の自由は、一般社会との紛争の中に置かれるべきではありません。

 

そしていくつかの地上的な問題があります。私達は自由が恣意性に陥るリスクについて頻繁に指摘してきました。安全装置と言うものが無く、真理の基準となるものが無ければ、これは起こりうる問題なのです。しかし神聖な真理というものがある時、人類が認識している真理というものを比較することができるのです。神聖な真理がある時、私達は誤りを正すことが出来るのです。神聖な真理は、私たちに良心の呵責を感じさせる道徳の法なのです。

 

インタビュワー:無神論者の世界観は基礎的なことを破壊してしまうため、存立することができません。

 

キリル総主教:その通りです。良心はワインの中で溺死することでしょう。誰もが、自分のほうがまだましだと言い聞かせます。自己破壊の未知は多く、私達を人生における信仰の道へと導きます。社会の未来まさしくそれに依存するのです。それ以上でもそれ以下でもありません。無神論者の描く世界は、神や純粋な道徳という基礎的なものを破壊してしまうため、存立しえないのです。そして、法の体系と人倫の粉砕が始まるのです。

 

邪悪なものと善なるものを分別できない者は道徳的な病気に罹っています。神聖な法は明確であり、容易に理解できるものです。それはモーゼの下で記述され、人々が早くからそれに従おうとしていたものです。使徒パウロによれば、「律法を持たない異邦人が自然に律法の求めるところを行う」とあります。神は道徳の法を神性の一部、一群として創造されたのです。文明の夜明けにおいてさえ、パガン朝や他の歴史上の時代において、人類は何が善きことで何が悪しき事かを疑うことはなかったのです。

 

律法を持たない異邦人が、律法が求めるものを自然に行うならば、律法を持っていなくても、自分自身が律法なのです。

 (for when Gentiles who don't have the law do by nature the things of the law, these, not having the law, are a law to themselves,)ローマ人への手紙2:14

 

インタビュワー:しかし、それは彼らを悔悟から解放することは容易でありませんでした。

 

キリル総主教:それはまったく異なる問題であると言えます。それは神聖な法をどのように現実に適用するかという問題であり、地に生きる人を導くかという質問です。

 

インタビュワー:悔い改めが遅すぎるということはあるのでしょうか?私達地上の人間は、悔い改めの機会を与えられています。

 

キリル総主教:七世紀にシリア人の聖イサクが素晴らしい思索を発表しています。悔い改めの遅れは大火であると。最後の審判に至った時、不信仰者に出口はありません。しかし何が待ち受けているかを知ることはできるでしょう。知識がそれを必要としない間も、信仰には特定の事実や現象を受け入れるために内的な奮闘が含まれています。

 

知識は信仰の主題を現実化させます。比喩的に言えば、あなたはこれを見、触れる事さえできるのです。私が言っているのはこういう事です。地獄は悔い改めを受けなかった人物の内的な破滅が現実化される世界なのです。地上における私たちの存在は、悔い改めるために与えられた機会なのです。それは時間の問題なのです。自己抑制を知る者は真に幸いだと言えます。しかし、育ちや環境、自分自身に集中することが出来ないことと言った様々な理由と異なる状況のために、この質は欠落していることがあります。

 

しかし、それは悔い改めるには遅すぎるという事ではありません。私達は神の御手の中にあってモント・カルヴァリーで責め苦に合った悪党をよく覚えています。彼は人生の最後の瞬間にあって信仰と共に悔い改め、天国に入ることを許されました。悔い改めを行うことが生気のなさや、形式的な儀式に陥らないようにすることは極めて重要です。このような状況は、私たちの日常で時たま起こりうることなのです。

 

幾人かの司祭は、告解に来た者たちに原罪を読み聞かせる習性があります。このようなことが拡大しているのは、多くの者が本当の悔い改めを知らない事によります。年老いた女性のような最も信仰深い人々でさえ、私は罪を犯しています。私は罪を犯しています。私は罪を犯していますと言ってしまうのです。司祭が聞いた事もない原罪を指摘したところで、最悪の悪夢の中にあったとしても、彼らに託すことは決してできないのです。

 

(続く)