透明人間と日本社会② | 教師辞めて10年間透明人間してました

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― そろそろ人間社会に戻ろうか ―

 

 マジョリティという球体が創り出すまやかしの遠心力

 

社会構造はよくピラミッド型に例えられますが、それは違うと思います。社会構造は球体です。ある人物を核として中心的人物が集合し、その人達に共通したカテゴリーの(似た性質や要素を持つ)人物達が周りを取り囲み、さらに似たカテゴリーの人物達が取り囲み、そうやって球体を形成していくのです。中心人物を囲んでその球体は回り、回ると遠心力ができます。球体が大きくなればなるほど遠心力は強力になります。

大きくなった球体こそマジョリティです。マジョリティという球体の構成要素となり得なかった少数派は遠心力の効力から漏れるどころか洗濯機の脱水の水滴の如く外界に向かって大きく弾き飛ばされます。暴力で、暴言で、疎外で、詐欺で……。暴力に直接的に対抗する術は難しいとしても、その他の手段に対して私達は対抗することができ得るのです。

その力を養うのが公教育です。人類はありとあらゆる知識や技能を獲得してきました。私達は先人が獲得した功績から人生をスタートできます。しかし、精神力はゼロからスタートしなければなりません。当然のようでこの辺りを勘違いしてしまうことはよくあると思います。時代は進んでいるのに人類は同じ失敗を繰り返していると悲観的に語られますが、時代が進んだとしても精神力は個人的成長に掛かっているのです。新人類だからと言って自動的にバージョンアップはされていません。

弱者やマイノリティはマジョリティという球体が創り出すまやかしの遠心力に騙されます。弱者やマイノリティは騙されまいとして警戒します。弱者やマイノリティはマジョリティの行動を見越して行動するようになります。それは一見するとマジョリティに対抗しているように見えますが、さらにマジョリティの遠心力の被害を拡大させてしまうのです。

性的搾取を例にすると、女性は性犯罪の被害に遭わぬよう夜道の一人歩きを避けます。一人キャンプが好きな女性はキャンプに行くことを躊躇います。その女性は自分の望みを曲げて我慢をするのです。もう一つ例を挙げると、子どもの性被害を防ぐため、親は暑い日でも裾の広がったスカートを着せられなかったり、公衆トイレの使用の際に気を遣ったりします。子ども達は親に守られる場面は増えますが自分自身で自由に選択し行動する自由や機会は減っています。もちろん、そうせねば身を守れないのですが、弱者やマイノリティはどんどん居場所や自由、権利を奪われてしまうのです。

現代の公教育は知識力と技術力以上に実は精神力を高めることに大きな意義を持っていると私は思います。知識と技術は生活していれば勝手に身に付くものもありますし、現代においてはインターネット環境があれば生活に必要な最低限度の情報を得ることができます。情報を得るための基礎力としての読み書き計算といった教育であればそれほど時間は必要ありません。しかし、自己を生涯に渡って支える精神力を養うには親と家庭だけでは身に付きません。他人の中に身を置いて自分と他人を共存・協働できるように訓練しなければならないからです。自分の性質と似通った人の集まりではなく、公教育・教員が見守るセーフティーネットの上で自分と性質の違う人達の存在を知り、自分自身の性質を自覚・許容・確立し、他人の性質を認知・尊重することを体得するのです。それには時間がかかります。インターネットの世界だけではできません。セーフティーネットがないので精神力の育っていない人は一瞬で心が折れてしまいます。自分の中の善悪や常識では解決しないことがたくさんあるからです。公教育は時間も労力もかかりますが実際に他人の中で精神力を身に付けなければ自分より強い者に、マジョリティの持つ強大な遠心力に一生振り回されてしまいます。

教育はなぜ大事か?現代における公教育の意義とは何か?その答えは自分を自由にする力を身に付けるためと言えるでしょう。

 

 

 ネット社会が炙り出した球体の実像

 

私たち一人一人がいくつもの球体の構成者となっています。目には見えない無数の球体こそが社会の実態です。私で言うならば、日本人、女性、黄色人種、シングルマザー、病人、障害者などの球体の構成者です。無数の球体の中で構成者が多い大きな球体がマジョリティであり、構成者が少なく小さな球体がマイノリティです。社会構造の球体は表面が非常にあやふやなものです。はっきりとしたラインはなく、常に出たり入ったりしています。ですから、完全な球体ではなく、球状と言った方が正確でしょう。

目には見えなかった社会構造としての球体は今、ITの発達と普及によってその実態と変動の様子が可視化し始めています。SNSや動画サイトでの人の動きを見ているとよくわかりますが、一人の人間が核となりゼロから球体を創り出し、その人の周りにはその人自体を支持する人々が集まり、さらにその人達の周りには核の人間を気に入らなかったり怒りや不満を感じたりする人々までが集まり、中層から表層まではその球体の様子を観察するたくさんの人々が厚く覆っています。注目なのは、球体が成長する過程で敵対勢力が球体の構成員となっている点です。初めは球体表面から核を監視しているだけですが、勢いが増してくるとそっと球体内部に侵入していき支持者のフリをして核の周りを取り囲みます。中には熱狂的な応援を送る人もいます。そうやって核の勢いを助け、ヒートするまで転がし続けるのです。そうしているうちにやがて世論や正義と対峙する点に達します。ある程度の大きさになった球体は、どこかの点で必ず世論や正義という最も目に見えにくく流動性の高い球体と対峙します。どんな球体も成長していけば必ず対峙するのです。なぜなら、世論や正義という全体的な概念と一人の人間の個人的な思考が完全に一致することはないからです。核の人間が勢いよく回っているうちはそれだけ遠心力が強く球体表面の人間は勢いに巻き込まれています。目に見えない世論や正義よりも、目に見えて成長していく新しい球体を見ればそちらに惹きつけられていくものです。そして、どちらが真のマジョリティかを決する瞬間がやってくるのです。その点に達する時を狙って先ほどの反対勢力のニセ構成員は世論や正義との矛盾点を一斉に突き始めます。潜り込んでいた球体から一気に外側に向かって飛び出し、元居た敵対球体に戻って正体を現し「こちらが真のマジョリティだ」と声を上げるのです。すると、遠心力は急降下し、表面にいた構成員にまで力が及ばなくなり、散り散りになります。成長した球体は一瞬にして小さくなり、最悪の場合、再び核の人間のみになってしまうのです。

歴史上でもこういったことが繰り返されてきたのだと思いますが、情報や連絡手段が限られていて後に残った人の記憶や憶測でしか球体の存在を記録できなかったために歴史上のマジョリティ構成は定かではありません。例えば、織田信長を核とする球体があったとして、その真の構成員は誰だったのか、明智光秀はマジョリティ(大衆世論)だったのか、マイノリティ(少数革新派)だったのか。あやふやなマジョリティがさらにあやふやなマジョリティを創り出す、二重三重のマジョリティ。対するマイノリティもあやふやで二重三重のマイノリティを創り出します。そのあやふやな流動が互いに影響を与え、諍いを生んできたのでしょう。昔は互いの実像や人物像が見えぬままに闘っていたことも多かったと思いますが、ネット社会となった今、その姿、人物、動向がつぶさに見えるようになってきたのです。