透明人間の製造工程④ | 教師辞めて10年間透明人間してました

教師辞めて10年間透明人間してました

― そろそろ人間社会に戻ろうか ―

 

 死の先の希望

 

夜が来るのが怖かったのです。日が暮れてから日がまた昇るまで、毎日怖くて一睡もできない日も頻繁にありました。土曜と日曜と祝日が特に恐ろしかったのです。連休は入念な準備と相当な覚悟が必要でした。一人になるのも怖かったのです。あれだけ他人との間に壁を築いてきたのに、一人でいることができなくなってしまったのです。同じ家のどこかに家族がいるとわかっていても視界から人が消えるのが怖くなったのです。そして、遂に家から出ることが怖くなったのです。支度はできても玄関のドアを開けられなくなりました。家族以外の人に合うのが怖くなりました。僅かに残ったやむを得ない社会的な予定すら、それを認識した瞬間からプレッシャーでおかしくなりそうでした。

結局は、死ぬことが怖かったのです。いえ、生死の狭間を彷徨うような、まさに死闘の時間に襲われるのが怖かったのです。19歳のある朝、突然パニック発作に襲われてから、一瞬たりとも頭から離れないあの猛烈な苦しさ、もうあんな思いはしたくないと強く強く、それはそれは強く願うようになりました。願えば願うほど恐怖と焦りは加速度的に膨れ上がるのです。悪循環を生み、次の発作を手繰り寄せます。人生を自分の足で歩む自信も気力も奪われていきます。強烈な恐怖感と焦燥感は、歯を食いしばって手に入れた職から逃避を図らせ、愛を錯覚させ、間違った選択をさせ、遂に私を破滅へと追いやりました。職も、家も、人も、財産も、少しずつ育んできた健康も、全てを失いました。それからは発作のこと以外は何も考えられなくなりました。発作が起きた場合のシミュレーションが脳内をヘビーローテーションします。心も体も24時間臨戦態勢になりました。30歳を過ぎた大人が、幼い子どもを抱えた母親が、ベッドの上で恐怖に怯え、唯々一日中泣き伏すことしかできなくなってしまいました。まともに眠ることも、お腹を満たすことも、浴槽に浸かることも、全てが怖くてできなくなりました。まるで爆弾を抱えているかのように少しでも体を動かせば爆発を起こし火だるまになってのたうち回るあの即死よりも恐ろしい地獄の光景が脳内を占拠しました。

その状態が5年ほど経過した頃、もう死んだ方がラクなのではないかと考えるようになりました。先天性疾患で生まれたことで物心ついた時から死を恐れ、幾度に渡って大病を患い、このまま死ねるかという一心で乗り越え、生きることに執着していた私が、死の先に希望の亡霊を見たのです。死ぬことは意外と簡単なのかもしれないと思いました。意外と怖くないのかもしれないと思いました。いつでもできることだと思いました。そう考えると「この先の人生、これ以上に辛く苦しいことはもうない」と確証を得たように吹っ切れたのです。全細胞で24時間警報が鳴り響いていた私の体が、スーッと落ち着きを取り戻していくのを感じました。

 

 

 地獄沼に架かった天使の梯子

 

地獄の底なし沼で溺れ藻掻いた長い日々。水面の上と下を行ったり来たりしていると、視線の先に天使の梯子が架かっているのが見えました。薄明光線とも呼ばれるそれは、その名の通りぼんやりとした並行な筋で、本当にあるのかないのか不確かでした。それでも、私はその梯子を昇ることにしました。一縷の望みなんてものではありません。気づいたら必死で、もう必死で昇っていました。そんな力がどこに残っていたのかはわかりませんが。

それからの私は現実を生きる人間になる訓練を始めました。本当の意味で自分の人生を始める訓練とも言えるかもしれません。人生をどこか自分のものとは思えず俯瞰から見て、あーでもないこーでもないと不満と批判ばかり言っていたのですが、自分が主役になるというかプレーヤーになるというかそういう覚悟ができました。

着替えるだけで日が暮れた日もありました。玄関のドアを開けようとした途端に眩暈を起こして倒れた日もありました。家から10m歩いただけで体が勝手に引き返してしまう日もありました。突然強い不安感と恐怖感に脳が支配され道路を渡れず迷子みたいに泣きながらうろうろした日もありました。建物の2階以上には行けなくて用事を諦めて帰る日もありました。レジ待ちの列に並んでいる間に激しい動悸がしてきて商品を買えずに帰った日もありました。幼かった息子に我慢をさせてしまったことも数え切れません。ファミレスで料理を待つ間に発作が起きて帰ってきた日もありました。園や学校に向かう途中に発作が起きて行事に参加できなかった日もありました。とにかく行き先は病院の傍じゃなければ不安だし、公共交通機関は使えないし、遠出なんてもってのほか。短時間の拘束も、少しの混雑も、家族以外の人と共に行動することも、出口がわからない建物に入るのも、本当に何もかもができなくて、行動しようとすると全身から強烈な拒否反応が出ました。私にとって全部が危険で、危機的状況なのです。ただでさえ予期不能の発作なのに、発作のことを気にしただけで起きる予期不安。一旦始まったら止められません。救急車に乗った回数は片手では済みません。どうしても避けられない予定は注射や点滴を打ちながらこなしました。情けなく惨めに泣きわめきながら人の中に入って働いてみたこともあります。30歳半ばを過ぎた大人が、子どもを抱えた一人親が、10年間は教員という立場だった自分が……プライドや世間体なんて木っ端微塵になりました。辛い時に思い出すのは「人間は過換気発作では死なないの!死ねないの!!」という看護師の言葉です。発作中にかけられた言葉ですが、いつ、どの看護師に言われたのか思い出せないくらい錯乱状態の最中ですが、脳に突き刺さった言葉です。

天使の梯子は近づけば近づくほど、昇れば昇るほどその姿が見えなくなりました。今、私はどのくらいまで昇ることができたのだろう?空まで、あとどのくらいだろう?