透明人間の製造工程① | 教師辞めて10年間透明人間してました

教師辞めて10年間透明人間してました

― そろそろ人間社会に戻ろうか ―

 

 はじめに

 

先天性疾患で生まれた私は、物心がついた時から既に自分の体を忌み嫌っていました。私は自分の醜さを隠そうとあらゆる嘘や虚構の姿で周囲の目を惹こうとしました。他人になりたいという歪んだ思考は人生をも歪ませていきました。そして、私は全てを失いました。仕事も、友人も、家族も、お金も、健康も、家も。自分で自分を破滅へと追いやってしまったのです。私は孤独になりました。いえ、ずっと孤独だったのです。孤独にならぬよう、孤独に見えぬよう、必死に虚構の自分を装っていただけです。本当の自分と虚構の自分の乖離が限界に達した瞬間、私は突然壊れてしまいました。30代の10年間はその全てを重度の不安障害という二次障害との死闘に費やしました。本当に地獄のような日々でした。

なぜ、そうなってしまったのか。もちろん、原因は自分の思考回路にあるのですが、生育環境や社会的背景を鑑みることで、同じように心が苦しい方々に何かの参考にしていただければと思います。

 

 

 

 虚構にまみれた孤独人間

 

 

水も飲めない不良品。傷だらけの醜い姿。天使などとは程遠い。

自然淘汰されるはずだったのに、生き残ってしまった命。

私は私の体を受け容れられないまま40年余りを生きてきました。不良品だと自分自身に刷り込んで、その醜い姿を分厚い嘘の壁で隠し、外壁だけは完璧主義を貫いて。

そして、私は孤独人間になりました。

 

 

 孤独人間の敗因

 

人間は自分達が思うほど進化していないのかもしれないと感じることがあります。確かに科学的知識や技術は目覚ましい進歩を遂げてきました。しかし、精神はある程度脳が進化して以降、それほど進歩していないように思います。そう、知識や技術は先人の功績を礎にできても精神においては自分自身で築いていくしかないのですよね。ですから、「自分とは?」「幸福とは?」「生死とは?」そんな答えのない問いに時間を費やしたり、時に確証のない論説に惑わされてしまったりすることもあります。私もその一人です。

私は物心がついた時から「自分」という存在と闘っていました。それはある意味で死闘と言えるほど過酷なものでした。「私は何のために生まれたのか?」「人間だけが進化した意味とは?」「宇宙は、地球は、私はなぜ誕生したのか?」「なぜ生まれ、なぜ死ぬのか?」「死んだらどうなるのか?」気が付いた時にはそのようなことを四六時中考えている子どもでした。人生の全てが疑問符だらけで目の前の現実に身が入りませんでした。誰といても孤独で、不安で、全く心から楽しめないのです。何をしていても生死が気になっていました。森羅万象の、生命の、宇宙の、人生の基礎基本を何も知らされずに生きていけるはずがないと、ゲームのルールも操作方法も知らずにどうやって生きていくのだと、人生が進んでいくことに強い抵抗感を抱き心が藻掻いていました。命を失う失敗は一度たりとも許されない無理無謀な闘いを強いられている、せめてルールは脳に搭載しておくべきだろうと頭の中で相手のいない反抗を繰り返していました。尤も、幼児期はこれほど明確に言語化できていたわけではなく、ただ自分の体が先に存在してしまっていて、死へのカウントダウンが始まった後に人生がスタートしてしまっていることに気が付くなんて、何と言うか……順番が逆な気がしていたのです。それに、どんなに頑張ろうといつか死んでしまうなんて、人生の全てが無駄な気もしました。私は何一つ知らないまま時間だけが過ぎて死期が迫ってくる、幼い頃からそんなことで頭がいっぱい……それこそ何という無駄な時間を過ごしているんだとさらに落ち込むのです。もうこれ以上無意味な闘いは止めよう、今を楽しんだ方がいい、今できることを精一杯した方が有益だ、周囲の子ども達のように。そんなことは私自身が一番よくわかっていたし、できるならばそうしたかったです。そんなことばかりを考えているせいで底知れない恐怖感と不安感に小さな心はいつも震えていたのですから。でも、どうやっても頭の中で疑問は膨れ上がる一方で先に進めないのです。

そうなってしまったのは私が常に生と死の峡間で生きていたからです。先天性疾患を持って生まれ体が弱い私は、感染症や大小様々な病気に繰り返し罹り、実際に生死の境も彷徨い危ない状態が何度かありましたし、身内からは如何に私が重篤だったかを聞かされる毎日を過ごしていたので、否応なしに死の気配を感じながら生きていました。何をする時でも視界の上層に「死の暗雲」が漂っていて、どんな時だって「死の影」が離れることはありませんでした。私の一挙手一投足、核から末端に至るまで「死」が纏わりついてきました。

全てには終焉がくるわけですが、だからこそ今を大事に精一杯生きようと考えるか、だったら何をやっても無駄だと考えるか、私は後者がベースにありながら前者になろうとして藻掻いてきたのだと思います。どれだけ何かを積み重ねても死んだ瞬間に何もなくなってしまうんだという根強く変え難い絶望が思考のベースにこびりついているのです。死など気にせずとにかく今に集中したい、死ぬ前にできるだけたくさんの幸せを味わいたい、そうできたらどれだけいいかと思います。当たり前なんてことは何一つない、ポジティブに考えようなどという言葉をよく耳にしますが、そこには「どうせ死ぬのだから」という前提をどう捉えているかが大きく関わっていると思います。私は成長するにつれて、死を知りながら生を輝かせるのはなんて難しいのかと考えるようになりました。

いつ堕ちるかわからない崖っぷちを命綱もなく独りで歩いている感覚でした。実の親にすらこの苦しさと恐ろしさはわからないでしょう。この体から逃れたかった。この体を捨てたかった。自分は食事すら命懸けなのに他の子ども達はみんな元気に走り回っている。自分は体中手術痕だらけなのに、親の体には傷がない。プールで裸にされた時、私だけが不自然な傷だらけなのです。大人も子どもも私の体を見ると皆一様に驚きの表情を浮かべ、珍しいものを見る目でジロジロと見られました。

私の望みはただ一つ。「苦難を味わうこの自分の意識を保ったまま別の体を手に入れたい」誕生日もクリスマスも、大晦日もお正月も、お彼岸もお盆も、毎日毎日願っていました。不平等な人生、不平等な世界、その元凶であるこの体が、どうしても赦せませんでした。生まれ変わりたいというのとは違って、別人になりたいと強く望んでいたのです。そう望んだことが私の人生を根底から狂わせたのでしょう。