求めよ、さらば与えられん。 | 〜白い風の囁き・京都洛北のちょこっと田舎暮らしの日記〜

〜白い風の囁き・京都洛北のちょこっと田舎暮らしの日記〜

気がつけば
この星に生まれて半世紀以上が過ぎ、

遂にアラカンを迎えました。

日々のつれづれや
お?っというような発見や
寺社で感じたことなど

ユル~く気ままに綴っているブログです。



この何年かは

お寺さんや神社さんへ伺うと

個人的なあれやこれやをお願いするのではなく

日々への感謝や自分の決意を宣言するなり






願うのであれば

生きとし生けるもの全ての魂の安寧と平和を。

なんとなく、どこかで

見たり聞き齧ったりしたような気がして

自分自身の何かを願うということはなかったのです






が、この数年、

友人、知人、家族、その知り合い等々…

やはりお年頃で、健康に問題を抱える人が増えて来て

病気や怪我の治癒、早期快復をお願いすることが多くなって来て。

自分に関わる人の健康というのは

結局のところ、自分にも関わってくるということなんですよね





まさしく

日頃、信心もしていないのに

困った時の神頼みで

奇跡を起こしてもらえるのなら、と






あわよくば、な、

都合の良い時だけのド厚かましいお願い

なのは

重々承知なのだけれど






自力でできる事、やれる事をやった後は

後押ししていただけるのなら

こんな嬉しいことはないわけで

人智を超えた風を吹かせていただけるなら

願わない理由はないな、と。





さて、この年始年末、

WOWOWさんで

「ハリー・ポッター」シリーズを何度も観ておりました。

何回観てもおもしろいよね〜

劇場公開されていたリアルタイムでは全く観てなかったけど

子供向けのお話しでしょ、と興味がなかったから。

完全にナメてました。びっくり






見始めたのはこの数年前からで。

「ロード・オブ・ザリング」シリーズも同じパターン。

早く観れば良かった、って思った。

思い込みはやっぱり良くない。損する笑い泣き

1話でも観れば、

そりゃヒットするわ〜って、分かるよね爆笑






ダンブルドア先生には名言が多々あるのだけれど

『ホグワーツでは

助けを求める者には、必ずそれが与えられる。』

この言葉が妙に響きまして。





やっぱり、求めないと奇跡も起きない!

丸投げじゃ門前払いかもだけど

たしかに、奇跡はひとりじゃ起こせない。

つくづく、そう感じた。






神様、仏様、その存在のお名前はそれぞれ

(自分の中では、そういう存在は

それぞれ特定の得意分野に特化したエネルギーだと解釈しています)

その時々、ワタシは

後押ししていただきたいお名前を持つ存在に助けを求める






手を合わせて

なぜ願うのかの理由と、自分がやった事、やろうとする事

自分には無理そうで補って欲しい事

どう頑張っても、たぶん不可能なので、なんとかしてほしい事

人間の領域を超えたミラクルを叶えてほしいという想い

そういうのを、心の中で語りかけていて。





ふと、コレって、そういう存在の皆様方に

クラファンのプレゼンをしているようなもんじゃないか?

そんな気もしてきて。






おしおし、頑張っとるな〜、加勢してやろう、とか

よう耐えてきたな、ここらでご褒美もあげとくわ、とか

そやな、コレは世のため、人のため、皆に喜ばしいことや、

よし、ここらで風を吹かしてやろう、とか

そんなお気持ちになってもらえたら爆笑






祈ることは

自分の決意の宣言であると同時に

個人戦から団体戦へ移行させるホイッスルを吹く

そんな様な行為なのかも。






ワタシはあなた、あなたはワタシ

全てがひとつ、であるならば

個人戦も団体戦も、

要は見え方が違うだけで、結局は同じこと

なんじゃないのか?





ならば

決意宣言、好きに祈れば良い

節度と敬意、礼儀を忘れなければ

何をどうしようが

やってしまうのは他の誰でもない、自分自身

内在するエネルギーを動かすのは

結局、自分自身なのだから



そんなことを思う今日この頃ですニヤリ




求めよ、さらば与えられん。

たずねよ、さらば見出されん。

門を叩け、さらば開かれん。

すべて求るものは得

たずぬる者は見出し、

門をたたく者は開かるるなり



新約聖書

マタイ伝26章64節