心の記憶、ミッドウエイ海戦の敗因を探る | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

幾度となく映画化されたミッドウエイ海戦

ミッドウエイ海戦の時に総指揮を取っていたのが「山本五十六」であった。

彼は、日米開戦の前には米国に駐在武官として赴任しており、その産業力の底知れぬ巨大さに舌を巻いていた。

米国とはとてもじゃないが戦争はできない。その思いは日毎に増していたという。

 

1942年6月5日、ミッドウエイ海戦において、日本海軍は虎の子の空母4隻を失い、壊滅的な損害を被ったのだ。

艦載機のほとんども海上の屑となっている。

 

米国とは戦えない、そう思った「山本五十六」は、進退を掛けて日米海戦に反対したが、思い通りにいかなかった。

あろうことか、総指揮官に任命されるのである。海軍の上層部が決めた人事であったが、理由は分からない。

 

かつて、日露戦争が勃発したときに、連合艦隊司令長官に「東郷平八郎」を任命した「山本権兵衛」は、明治天皇からその人事を訊かれ「東郷は運のいい男ですから」と陛下にお答えしている。若き「山本五十六」は、この日本海大海戦に参加していた。

 

「山本五十六」は、近代戦における航空戦力の重要性をいち早く見抜き、誰より熱心にその必要性を説いて回った。

ところが、山本は結局戦艦大和・武蔵に代表される大艦巨砲主義から脱することができなかったのだ。

 

その原因を探っていきたい。22歳の山本は若き少尉候補生のとき、戦艦日進に搭乗して日本海海戦に出陣したのだ。

それは海戦史上に類例を見ない東郷艦隊の圧勝劇であった。バルチック艦隊をほぼ全滅に追い込んだ東郷艦隊は、

22歳の「山本五十六」にとても大きな感動を残したのであった。山本は、感動していた。大艦巨砲の威力にである。

 

ただし、優秀な頭脳を備えていた山本には、「これからは航空機の時代だ」という考えは頭から離れなかった--はずであった。にもかかわらず、心の奥底から山本を突き動かす大艦巨砲主義が、しぶとく生き残っていた。

 

それはあくまで戦艦大和を建造した海軍上層部の堅い頭とは違っていた。

あの日本海海戦において、山本は片手の指3本を失くすほどの負傷をしていたのだ。さらに片足の大怪我をしている。

そのときの激痛がときおり蘇っていた。すぐれた頭脳とは別に、心の奥で大艦巨砲主義が生き返ってしまうのだ。

 

考えたくはないことだが、「東郷平八郎」と「山本五十六」、この両者の違いは「心の記憶」ではなかったのだろうか。