エバンス博士と出会い、またその紹介で知り合った人から思いもよらず、ダスキンの骨格となる技術を無償で手にしたのが鈴木清一氏である。
彼の技術力の高さと経営のユニークさ、素晴らしさはマスコミにも多いに取り上げられ、
彼のワックスメーカー『ケントク』は有名な企業へと成長していた。
そんな時、アメリカで当時一番のワックスメーカーだったS・C・ジョンソン社から提携の申し出があった。
これに感激し、承諾した鈴木清一氏は契約を行うことになる。
対等合併という約束であったが、S・C・ジョンソン社は一方的に増資を発表する。
やがて、人事権を握られ、副社長として乗り込んできたハロルド・ディーンなる人物にいいように会社は操られてしまう。
とりわけ創業以来、会社を束ねる柱として続けてきた『勤行』という『般若心経』を読む朝晩のお祈りも非合理だとして止めさせられてしまった。真面目一筋でやってきた鈴木清一氏にとって、これは正に晴天の霹靂と呼ぶしかない出来事だった。
この吸収合併劇は、当時の日本の経済人を震撼させた。
彼はついに彼が創業したケントクの代表の座から追われてしまう。
そして1963(昭和38)年、ダスキンとして、大阪府吹田市江坂の地で、新しく裸一貫から出直すことになった。
鈴木清一氏51歳の歳のことであった。当初、社名を『株式会社ぞうきん』にしたかったが、ダストコントロールとぞうきんの造語で『ダスキン』とつけられた。
新たに始める吹田の工場の資金は従業員が貯めていた、わずかばかりの退職金を借りて充てている。
鈴木清一氏はその時のことをその著『鈴木清一のことば』(ダスキン発行)の中で自らこう語っている。
『私が丸裸でケントクを追われた時、従業員たちは自分のもらった退職金と、かつて私が分けてあげた1500万円を社長さんに預けます」と言って私に差し出してくれましたという。
鈴木清一氏は、「愚痴は言うまい、相手の意図を見抜けなかった自分が悪いのだから」そう観念して新規事業に取り組んだ。
ダスキンの「歓びの種を撒こう」は彼が考えた経営理念である。