コロナウイルス感染拡大の状況下において、観客を入れての公演などできない。
現在、あらゆるイベント業は成り立たない状況にある。
それでは、AKB48の功績を振り返りながら、その時代背景を確認していきたい。
私は、彼女たちのデビュー当時、神田や秋葉原近郊で営業に従事していた。
失礼ながらその当時、彼女たちが国民的なアイドルになろうとは夢にも思わなかった。
何しろAKB48劇場には、観客は10人ほどしかいなかった。初期のメンバーたちは、店頭で公演のチラシを配っていたのである。
かつて、30歳以上の新メンバーを募集する「大人AKB48オーディション」が行われたことがあった。
ヒットしたNHK連続テレビドラマ『あまちゃん』の劇中アイドルグループGMT47を模した47都道府県から1名ずつ選出する「AKB48 Team8全国一斉オーディション」である。
天才的プロデューサーの秋元康は、「AKB48グループドラフト会議」など、立て続けに新コンセプトのオーディションを展開していた。コロナウイルス感染下において、最近ではそうでもないが、子どもたちのなりたい職業ランキングではアイドルが上位にランキングしていた。その中でもやはりAKB48への憧れは絶大であった。
しかしそんな女の子たちの憧れの職業に対し、「AKB48こそが、ブラック企業」という衝撃の説を唱える人物がいる。
2010年にいち早く「ブラック企業」問題に警鐘を鳴らし、この言葉の生みの親でもある坂倉昇平氏だ。
坂倉氏の著書『AKB48とブラック企業』(イースト新書)では、AKB48自体が日本の雇用システムの再現であるとして、主にAKB48プロデューサー・秋元康氏が手がけるAKB48楽曲の歌詞と日本の雇用を比較検証し、AKB48とブラック企業をリンクさせている。いや現実に被さっている。
AKB48の労働特性として「メンバーが物語やキャラクターを演じ」なくてはならない、と坂倉昇平氏はいう。
それはファンとの関係から「相手(ファン)感情を読み取り、感情に働きかけるような労働が必要」となる。これを「感情労働」と呼ぶが、行き過ぎた感情労働は「精神的疲労、消費者のために満足がいく感情労働ができないことによるストレス」「消費者からの圧力」が生じていくことになる。さらに「キャラクターを演じる」AKB48は全人格が評価対象となり、過酷な長時間労働に晒される。
AKB48の労働環境は過酷だ。しかも彼女たちのコンセプトは「会いに行けるアイドル」である。
よって握手会の回数が膨大になり、人気メンバーは一回当たりの拘束時間も長時間化するのだ。
それを補うのが「やりがいの搾取」だという。ファンのためにとメンバーたちが自発的に労働環境の過酷さを我慢して受け入れてしまうことを指すが、そこにメンバーたちを導く装置が、AKB48の歌う歌詞に隠されている。
秋元康が手がける歌詞の多くは「自己啓発」的であり、労働を美化し、また自己責任を押し付けるものとしても機能する。例えば、峯岸みなみが恋愛禁止を破り、丸刈り騒動に発展した一件についてであるが、AKB48チーム4の『清純フィロソフィー』の歌詞を引くと「恋愛は許してあげよう。その代わり、自己責任でリスクを引き受けろ」というメッセージが隠されている。同時に「事実の解明やスタッフの責任ははぐらかされる」装置ともなっていると思う。
AKB48と労働問題のリンクはまだある。
チームを数多く作ることでチーム間の「格差」を構築し、総選挙を通じてメンバーたちを「過剰に競争」させている。
総選挙は一見「自由化」でもあるが、だからこそメンバー間では仲間意識よりもお互いの疑心暗鬼、不安が募ってしまう。自由化による過剰競争、自己責任、これはまた現代の社会の構図ともリンクしている。
そして過酷な自己責任の競争原理に投げ込まれた挙げ句が「世代交代」という名の「使い捨て」ではないのだろうか。
「卒業」というのは、別の呼び方に変えただけの「使い捨て」である。
こうした視点で検証すると、確かにAKB48の人気の仕組みと労働問題は絡み合うことは多いと考えられる。
ブラック企業の定義にもある長時間労働、格差、自由競争、雇用の流動化など、これらはすべて日本の雇用システムの問題点に違いないし、AKB48の人気とリンクしている。
にしても、新型コロナウイルス感染拡大は、いつまで続くのか。気が重い。