読者のみなさんは、「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」「春と修羅」を知っていますか。
わずか37年の短い生涯のうちに、数多の名作童話や詩を著した宮沢賢治。
宮沢賢治は、1896年(明治29年)8月27日、稗貫郡花巻川口町(現花巻市豊沢町)にて質・古着商を営む宮沢政次郎とイチの長男として生まれた。
詩人、童話作家、教師、科学者、宗教家など多彩な顔を持つ一方、1926年(大正15年)には農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために羅須地人協会を設立する。多方面で活動を行っていたが、無理がたたり病に倒れ、1933年(昭和8年)9月21日、37歳の若さでこの世を去る。
生涯で多くの短歌や詩、童話などの作品を遺しており、現在では国内、国外を問わず親しまれている。だが、生前に刊行された著書は2冊だけであった。
宮沢賢治と童話の出会いは、小学校3年の時の担任、八木英三の話してくれた童話に感動したことに始まっている。
後に自ら「自分の童話の源には先生のお話が影響している」と語っている。
賢治は、15才のころ短歌を作りはじめた。入院中の看護婦への初恋、父との対立など、ことあるごとに短歌を創作した。
高等農林3年の時に同人誌「アザリア」を発行し、短編、短歌を発表する。賢治の童話は、国柱会に傾倒して家を飛びだし、上京した時にもっとも多く書かれたものだ。国柱会を創設した田中智学の「芸術を通じて道を説く、これ真の芸術なり」という文芸観が賢治の執筆活動をうながしたからとも言われている。
花巻農学校に勤務した時期、賢治は実にのびのびと振る舞っている。農学校の校歌にあたる精神歌を始め、次々に作詩作曲をおこない、いくつかの戯曲を書いて生徒たちに上演させたりしたという。この時期は、賢治にとって、精神的に起伏や振幅に富んだもっとも心豊かな時間であっただろう。
宮沢賢治は、この頃すでに、短歌という形式から離れることを自覚していた。
そして、口語の自由詩「心象スケッチ」を書きはじめていたのである。常に手帳と鉛筆を持って山野を駆け回りながら、心に浮かんだ模様をものすごいスピードでメモしていた、という風変わりなエピソードもある。
彼は、むしろ石灰肥料の販売を本業にしていた。2冊だけの出版ではとうてい食べていくだけの印税収入はなかったのである。私が、宮沢賢治を優れたコピーライターとするのは理由がある。第一に、数千部に及ぶDMの文面は彼の手によるものだ。すべては、彼が考え抜き、どうすれば肥料を欲しいと思ってくれるか、もっとわかりやすい文章はないものかを日夜考え抜いたのだ。
さらに、雑誌広告にも優れたコピーを考えたという。