スーパーモデル「ワリス・デイリー」の奇跡 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

ワリス・デイリーの半生は波乱に充ちていた。

彼女が生まれたのは世界最貧国ソマリアである。

1965年、アフリカ大陸の東に位置するガラカイオの遊牧民の家庭に生まれる。

5歳のとき、FGM(女性性器切除)を施され苦痛を味わう。
  

1978年、13歳のとき、ワリスはラクダ5頭と交換に60代の老人と結婚をさせられそうになり、砂漠の中を1人逃げ出す。

過酷な道のりの末、母親の親戚が住む町モガディッシュにたどり着いた。

 

1979年、駐英ソマリア大使の伯父と共にロンドンに渡ることになる。 それから4年間ほどメイドとして働く。その後は、任期を終え帰国しなければならなかったがそれを拒否し、 ロンドンでホームレスを経験した後アルバイトをして生計を立てる。

 

1983年、18歳のとき、アルバイト先のマクドナルドで、イギリスのトップファッションカメラマンであるテレンス・ドノバンに見出される。 それをきっかけにファッションモデルへと転身し、世界的に知られる存在となる。

 

ロンドンからニューヨークに渡り、スーパーモデルの仲間入りをする。 アフリカ人のモデルとしてはじめて化粧品会社レブロンの専属モデルとなる。 そして、ほとんどの一流ファッション誌の表紙を飾るようになる。

 

さらに、ワリス・ディリーの人生を追ってみたい。 

1987年、映画『007 リビング・デイライツ』に出演。

1995年、BBCのドキュメンタリー番組「私の人生を変えたシリーズ」で、 “ニューヨークの遊牧民”として取り上げられる。 このとき、逃げ出して以来約17年ぶりに故郷ソマリアに戻り、母親と感動的な再会を果たす。

 また、ニューヨークに戻った秋には、のちに夫となるディナと知り合う。

 

1997年、雑誌「マリ・クレール」のインタビューで初めて自分の過去・FGM(女性性器切除)の事実を明かす。 同年、アナン国連事務総長より、FGM廃絶のための特別大使に任命される。 世界中を駆け巡り、多くの会議に参加し、各国の大統領やノーベル賞受賞者、映画スターたちと会い、国連に莫大な資金を募った。

 

 また、自伝本「Desert Flower」をニューヨークで出版し、国際的ベストセラーとなる。 ドイツでは、有名な雑誌のベストセラーランキングで120週トップ10入りをした。 いくつもの国で50刷以上増刷され、今日までに、1,100万部数以上売り上げている。

 

1998年、2冊目の本「Desert Down」を出版。これも国際的ベストセラーとなる。この頃、第1子を出産する。

2002年、オーストリアのウィーンを拠点とするワリス・ディリー基金を設立。 世界中の多くの人にFGM(女性性器切除)の存在を知って考えてもらい、廃止していく活動を開始。

 

2005年、3冊目の本「Desert Children」を出版。ヨーロッパで力のある政治家やヨーロッパ連合(EU)に働きかける。

2006年、ヨーロッパ連合(EU)が、連合の歴史上はじめてFGM廃絶を掲げた。

2007年、イギリスのロンドン警視庁とBBCと一緒に、FGM反対のキャンペーンをはじめた。 また、ワリスの活動や著書における多くの功績に対し、サルコジ大統領よりフランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を授与される。

 

2008年、映画『デザート・フラワー』の撮影が開始される。翌年、映画は完成する。

ワリスは女性の尊厳と権利のための新しいPPR基金のメンバーの一員となる。 資金供給のためのはじめてのチャリティ企画が、パキスタンやインド、コンゴ、ベナン、ナイジェリア、スペイン、フランスで認可されている。

 

ワリスのこのような活動があり、2007年頃から、ケニア、ガーナ、ブルキナファソ、中央アフリカ共和国、 トーゴをはじめとするアフリカの14の国々では、法律上FGMを廃止するようになった。

ワリス・ディリーは世界中の女性にとって希望と正義の象徴となっており、今現在もその強い信念に基づき活動を続けている。

 

時系列で素敵で過酷な人生を辿ってみた。決して、途中であきらめてはいけない。

それをワリス・ディリーは語っている。