有名な公害病を描いた映画「Minamata」、救いのない憂鬱 | ブロッコリーな日々

ブロッコリーな日々

アイドルマート下花店店長の落書き

『ミナマタ』(Minamata)は、2021年2月5日に公開されたアメリカ合衆国の映画である。

ジョニー・デップが主演を務めた、日本の熊本県水俣市で起こった水俣病を題材とした映画『ミナマタ』の予告編が公開された。

1970年代、水俣病の惨状を取材し世界に配信したアメリカ人写真家「ユージン・スミス」の闘いを描いた作品だ。

ジョニー・デップが「ユージン・スミス」を演じた。

 

製作スタッフは、撮影に先がけて日本で水俣病患者や家族への面会や取材を行った。

そうしてサポートを受けながら準備にあたってきたという。日本のほか、セルビアやモンテネグロでも撮影が行われている。

作品は、2020年2月21日にベルリン国際映画祭でワールドプレミア上映が行われた。

では、「ユージン・スミス」とは、如何なる写真家だったのか見ておきたい。

カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母がアメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。

 

ユージンの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。ユージンはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。

 

第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月22日の26歳のとき、沖縄戦で歩兵と同行中に日本軍の迫撃弾が炸裂し、砲弾の爆風により全身を負傷した。左腕に重傷を負い、顔面の口蓋が砕けたという。

 

約2年の療養生活を送ったが、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、ユージンは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。

 

戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味を向け、1947年から1954年まで、雑誌『ライフ』で「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。

 

1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、ライフ誌編集部の方針と対立し、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。

 

1961年、日立製作所のPR写真撮影のために来日する。ユージンはそのとき、もう一度日本を撮りたいという願いを持っていた。

 

1970年8月、51歳のときにニューヨークのマンハッタンにあるロフトでアイリーン・スプレイグ(のちの妻となるアイリーン・美緒子・スミス)と出会う。富士フイルムのCMでのユージンへのインタビューで、アイリーンが通訳を務めた。当時20歳のアイリーンは、母親は日本人で父親はアメリカ人。東京育ちで11歳のとき渡米し、当時はカリフォルニアのスタンフォード大学の学生であった。出会ってわずか1週間後に、ユージンはアイリーンに自分のアシスタントになり、ニューヨークで同居するよう頼む。アイリーンは承諾しそのまま大学を中退、カリフォルニアには戻らずユージンと暮らしはじめた。

 

ユージンと親交のあった元村和彦が同年秋に渡米した際、ニューヨークでユージンらに来日して水俣病の取材をすることを提案した。1970年代は水俣病裁判とも重なり、日本全国各地で公害が社会問題となっていた時期でもあった。

 

ユージン・スミスは、水俣病患者を撮影する際には、涙を止められなかったそうだ。

悲惨な光景が何枚も残されている。10代の少女がまるで獣のように見える。なにしろ言葉も満足に話せないという。

 

日本の高度経済成長の裏側に、こんな悲惨な被害者が大勢いたことを忘れてはいけない。