1979年、ロボトミー殺人事件の衝撃 | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

ロボトミー殺人事件 昭和54年(1979年)
驚愕の復讐劇だ。事件を掘り起こしてみたい。

昭和54年9月26日午後5時過ぎ、桜庭章司(50)はデパートの配達員を装い、東京都小平市美園町の精神科医・藤井澹さん(きよし・53)宅の格子戸を開けた。

彼は、「お届け物です」と言葉を掛け、出てきた藤井医師の義母・深川タダ子さん(70)を押さえつけると、刃物で脅して手足に手錠を掛け、ガムテープで目と口をふさいだ。

間もなく帰ってきた医師の妻・道子さん(44)も取り押さえられ、同じように縛られた。

桜庭は藤井医師への恨みを持ち、彼の帰宅を待っていた。桜庭は藤井医師の行動パターンを調べ、いつもは夕方6時には帰宅するはずだったが、この日は8時を過ぎても帰宅しなかった。

 

このままでは目的は達成できず、立ち去れば警察に連絡されてしまう。そのように思っているうちに2人が騒ぎ出した。

大量の睡眠薬を飲み、朦朧(もうろう)としていた桜庭は2人の首を切り殺害する。

そして、強盗を偽装するために、預金通帳と現金46万円を奪って逃走した。

彼は、同日午後10時ごろ、池袋駅の中央改札口近くで警察官に職務質問を受け、交番に連行された。

翌27日午前2時過ぎ、同僚の送別会に出席していた藤井医師が帰宅し、妻と義母の遺体を発見する。

何者かが侵入し、家人を殺害して、金品を盗んだ強盗殺人と直感した。藤井医師は、自分に向けられた怨恨殺人だとはその時には考えつかなかった。 

では、桜庭章司に何が起きていたのだろうか。
桜庭は昭和4年に長野県松本市で生まれた。彼は貧しい家計を助けるため、工員として働きながら英語を独学で学んだ。20歳のとき、新潟電話局に通訳として就職する。その後、英語力を見込まれ、米国の情報機関に通訳としてスカウトされた。彼の英語力はスラングも理解できるほどだったという。

一方、街のジムでボクシングの練習を始め、北陸社会人ボクシング大会で優勝した。

だが、病弱な母親を看るため、新潟から松本へ帰郷することになった。

そして松本では英語を生かす仕事が見つからず、仕方なく土木作業員として飯場で働くことになった。

 

桜庭は正義感が強く、出稼ぎの工員をいじめる入れ墨の作業員とけんかになった。

また現場の手抜き工事に気付き、社長に訴えたが、社長は桜庭に酒を飲ませ、給料半年分の5万円を握らせて黙らせた。ここまでみて、彼に精神的障害は見当たらない。

彼は、先日飯場のけんかで殴った相手が警察に訴えたために逮捕された。さらに事情を問われた社長は、桜庭に現金をゆすられたと嘘の証言をしたため、暴行と恐喝で懲役1年6カ月(執行猶予3年)の判決を受けた。

そして昭和33年8月、ダム工事現場で働いているときに、仲間の解雇と賃金不払いをめぐって社長宅に直接交渉に行き、それが恐喝とされて再逮捕される。この事件で執行猶予は取り消され、昭和34年12月、長野刑務所に収監された。
正義感は、ときに不遇を招く。やや生真面目すぎたといえるだろう。


2年後の昭和36年、桜庭は出所後に上京して鉄筋工として働くかたわら翻訳の仕事を始めた。

当時はテレビが普及し、力道山がヒーローになっていたころである。昭和37年5月、翻訳会社からの帰り、桜庭はたまたまスポーツ新聞を手にした。新潟の通訳時代に、米国のスポーツ情報に精通していた桜庭にとって、新聞の内容は信じられないほどデタラメだった。

 

桜庭は新聞社に行き、間違いを指摘した。当時はプロレスやボクシングの人気が盛り上がっていたが、米国の情報は乏しかった。担当者は桜庭が事情に精通しているのに驚き、彼は逆に新聞社から原稿を依頼される。

そして、鬼山豊のペンネームで記事を書くようになったという。

 

桜庭はスポーツライターの草分けとして、新たなジャンルを独力で切り開いた。スポーツ評論家、作家として著名人となり、当時の月収もサラリーマンの5倍以上になった。学歴のない、社会の底辺を生きていた青年の人生に、やっと明るさが見えてきた。ここで終わっていれば、夢だった小説家にも届いたのだが、さらに彼の「正義感」が顔を出す。


昭和39年3月3日、妹宅を訪れた桜庭は、母親のことで妹夫婦と口論となった。桜庭は飯場で働いていたときも、収入の半分を仕送りしていたが、それが理解されていなかったのだ。怒った彼は茶だんすや人形ケースを壊した。妹の夫が警察に通報し、桜庭は器物損壊の現行犯で逮捕された。

妹夫婦は翌日告訴を取り下げたが、志村署は釈放しなかった。1週間留置した上で桜庭の前科を調べ、反復する暴力行為は精神疾患が原因として都立梅ヶ丘病院に連行した。精神鑑定を強制し、鑑定した女医は桜庭を「精神病質」と診断した。当時の「精神病質」とは、平均的人格から逸脱し、その異常性のために社会を悩ませる人格と規定されていた。

もちろん「精神病質」という疾患概念は、現在では否定されている。

当時、この病名がつければ精神病として措置入院させることができたのだ。桜庭は問診も受けずに聖蹟桜ヶ丘の桜ヶ丘保養所(現桜ヶ丘記念病院)に強制入院となった。

当時、桜ヶ丘保養所では「ロボトミー」を行っていた。「ロボトミー」とはロボ(脳)とトミー(切る)の造語で、頭蓋骨に穴を開け、脳の一部を切り取る治療である。ポルトガルのリスボン大神経科教授エガス・モニスによって始められ、画期的治療と評価されて、モニスはノーベル賞を受賞したほどである。

 

桜庭は、他の患者がロボトミーで廃人となっているのを知り、脳を破壊するロボトミーに恐れをなしていた。桜庭は病院の実態を知るにつれ、母親に「手術に同意しないでくれ」と手紙を出した。しかし年老いた母は「息子のため」と医者から言われ、手術に同意してしまう。

11月2日、桜庭を担当していた藤井医師は肝臓検査と偽り、桜庭の脳を手術した。執刀医は加藤雄司医師で、ロボトミーの1種である帯回切除手術を行った。すぐにロボトミーの効果が現れ、桜庭は従順になったが、まったく別人になっていた。桜庭は子供のころから病気ひとつしたことがなく、ボクシングで体を鍛えていたが、術後は字も書けなくなっていた。

 

ロボトミーの後遺症で手足は硬直し、感情がまひし、執筆活動の意欲さえ失った。頭痛に悩まされ、「てんかん」の発作を起こすようになった。桜庭は別人となり病院を退院した。現在では、まったく信じられない医療である。

そして15年の間、転職に転職を重ねたが、奈落の底を歩くような毎日であった。発作を起こすため自動車の運転はできず、建築現場で働くこともできなかった。毎晩、睡眠薬に頼り、睡眠薬で朦朧(もうろう)としていた。

 

アパートを借りる金もなく、横浜の貴金属店に強盗に入ったが、手足がうまく動かず、店員に取り押さえられ、4年の懲役刑となった。これらはすべてロボトミーの後遺症ともいえる。

桜庭を支えたのは、自分の人生を破滅させ、自分の肉体と精神をも奪った藤井医師への復讐だけだった。

彼は、医師名鑑で藤井医師の住所を突き止め、藤井医師に謝罪文を書かせて無理心中するつもりだったが、桜庭には復讐を果たす力が残されていなかった。

桜庭は、藤井医師の妻と義母の殺人で、強盗殺人、銃刀法違反など4つの罪に問われた。

そして、1,2審で無期懲役の判決を受けた。

 

手術や睡眠薬服用による刑事責任能力が争点となり、弁護、検察双方の要請で8年半にわたる精神鑑定が行われた。

検察側は2人を殺害した桜庭被告を死刑に処すべきと控訴したが、平成8年11月16日、最高裁(藤井正雄裁判長)は桜庭に無期懲役の確定判決を下した。

判決文で、「死刑の選択は慎重にすべきで、本件では死刑は躊躇せざるを得ない」と述べている。
 

*この項は、「ロボトミー殺人事件 - クール・スーサン」よりほぼ全文を引用しました。謹んでお礼申し上げます。