"強盗"と怖れられた五島慶太の闘い | ブロッコリーな日々

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アイドルマート下花店店長の落書き

東急グループの創始者、五島慶太。

1920年、五島慶太は鉄道院を辞し、武蔵電気鉄道常務に就任する。

 

この転身には、官僚としての生活への飽き足らなさがあったようで、後日こう振り返っている。

「官吏というものは人生の最も盛んな期間を役所の中で一生懸命に働いてようやく完成の域に達する頃には、もはや従来の仕事から離れてしまわなければならない。若い頃から自分の心にかなった事業を興してこれを育て上げ、年老いてその成果を楽しむことのできる実業界に比較すれば、いかにもつまらないものだ」と。

 

このくだりは、三菱財閥を起こした岩崎弥太郎を想起させる。

成功する人には、成功しない人が持っている「覚悟」があると思う。

 

五島慶太は、東京帝国大学卒業後、官僚を9年務めた後に現在の東急東横線の前身である武蔵電気鉄道常務に就任する。

実質的な経営権を獲得し、池上電気鉄道(現・東急池上線)や玉川電気鉄道(現・東急玉川線)をはじめとする数々の競合企業をM&Aを用いて次々と買収していった。

 

鉄道の買収は、いずれも強引な手口であったという。「強盗慶太」の異名をとったのはこの頃である。

ただし、鉄道事業では優れた経営を行い、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の小林一三と並び、「西の小林・東の五島」と称されたという。

 

この時代に私鉄経営とは、さぞや男を愉悦させる魅力に富んだ仕事だったことだろう。

たぶん、どんな美女だろうとその魅力には比較しようがなかっただろうと思うのだ。

羨ましいと思う。本物の強盗にはなりたくはないが、強盗慶太にはなってみたいものだ。

 

最後に、彼の信条を紹介したい。

「オレはその日のことは、その日のうちに忘れる主義だ」