緒方貞子女史をご存じですか?
1927年(昭和2年)9月16日、東京府東京市麻布区(現東京都港区)に外交官・元フィンランド特命全権公使の中村豊一・恒子夫妻の長女として生まれる。
命名は犬養毅による。父の転勤で幼少期をアメリカ・サンフランシスコ(バークレー)、中国・広東省、香港などで過ごす。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入、聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業(自治会の会長も務める)。
その後、父や、聖心女子大学学長のブリットの勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得した。
大学院での指導教員はアジアの政治・国際関係を専門としたロバート・スカラピーノである。
上智大学名誉教授。独立行政法人国際協力機構理事長、国連人権委員会日本政府代表、日本人初の国連難民高等弁務官、アフガニスタン支援政府特別代表を歴任。
日本では、女性の社会的地位が低いと諸外国から非難されている。
確かにそういう側面も否定できない。
ところが、そんな悪評を吹き飛ばすような女性がいた。国連難民高等弁務官だった緒方貞子女史である。
例えばアフリカではルワンダ難民のために不眠不休の活動を続けたそうだ。
平成10年だけでも、彼女が訪問した国は27を超え1年の半分は出張であったそうな。
平成2年(1990)12月に毎日新聞社の取材を受けて次のように答えている。
「座右の銘?そんなものありません。目の前の仕事を一つ一つ解決するだけ」
緒方貞子女史に託されたのは、「解決」したすぐあとから、その「解決」の「崩壊」が追いかけてくるような難問ばかりであったという。座右の銘なんぞの世話になっているヒマなんかなかった。
彼女は、旧ユーゴスラビアの紛争地を歩き回って、複雑にもつれた糸をほぐそうと懸命な努力を続けていた。
サラエボでは、銃弾が飛び交っていたので、仕方なく防弾チョッキを身に着けていたのだ。
幾多の功績を残し、2019年10月22日死去。享年92歳であった。